「市長選挙の出馬声明は、同じ鴨川でも上流ではなくて下流の伏見でやるべきだった」。こんな厳しい意見を聞かされたのは、もう選挙が終わってから2ヶ月近く経ってからのことだ。発言の主は、「伏見勝手連」の中心メンバーとして奮闘していただいたある測量会社の社長さんである。この言葉を聞いた途端、私は今回の市長選の敗因がどこにあるかを瞬時にして覚った。鴨川の上流の左京区で勝利しながら、なぜ下流の伏見区で大差をつけられたかが痛いほど分かったからである。

  私はかねがね、大都市の中を流れている河川としては「鴨川は世界一美しい川だ」と言ってきた。通常、大都市は水運等の関係から河口に立地する場合が多いので、流域の汚水が流れ込んでどうしても河川の下流部は汚れてしまう。大阪の淀川がよい例だ。しかしその点、京都は上流部に位置しているのでその心配がない。かっては家庭汚水や友禅流しの洗浄水で汚れた時期もあったが、長年にわたる市民と行政の努力によって文字通り「世界一の美しい水質」に蘇らせることに成功した。

  河川対策の歴史は、まず氾濫や洪水をどう防ぐかという「治水」対策から始まる。次に河川の水をどう安定的に利用するかという「利水」対策が続き、そして最近では、河川に親しむための水辺環境をどう整備するかという「親水」対策へと歴史的に発展してきた。鴨川の河川整備には(必ずしも自覚されていたわけではないが)、治水・利水・親水の3要素が融合するように数々の工夫が凝らされている。例えば、急流にならないようにするには河床の勾配を緩やかにする必要があるが、そのために設けられた短い間隔の「落し堰」は下流部からはあたかも小さな滝の連続のように見える。変化に富んだ美しい光景だ。また水辺の散歩道やジョギングコースとしてこよなく愛されている堤防中腹の「高水敷」は、もともと平常時には清流を確保するために下部断面を小さくし、鉄砲水のときには氾濫を防ぐために上部断面を大きくする目的で設けられた一種の「踊り場」なのである。

                        

  そもそも鴨川は、古来から「暴れ川」として知られていた。平安時代の絵巻物をみても、賀茂川の風景は濁流が渦巻く恐ろしいばかりの様相に描かれている。後白河法皇をして「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」と嘆かせたのは、有名な話である。しかし同時に、鴨川は歴史的にみても親水機能のゆたかな川なのだ。鴨川は「川床」と称する川面に張り出した「オープンテラスカフェ」の発祥地であるように、わが国での「川遊び」「親水空間」の源流なのである。すでに16世紀の頃から四条付近の河原では庶民の水遊びや夕涼みが盛んになり、やがて阿国歌舞伎や猿楽・田楽の見世物小屋が立錐の余地もなく立ち並ぶようになっていったのである。

  だが、このように鴨川を讃えるばかりの私の発言は、鴨川にもJR東海道線を境にした「天国と地獄」ともいうべき南北格差が厳然と存在することを見逃すものだった。それはまた、長年放置されてきた行政格差・行政差別を事実上免罪するものだった。同じ鴨川でありながら南区の東九条地区一帯では河川敷の不法占拠状態が戦後半世紀近くにわたって放置され、最近まで「垂れ流し」状態が続いていたのに、である。また名神高速道路以南の伏見区下流部になると、周辺マンション住民の度重なる抗議と陳情にもかかわらず、つい最近に至るまで(暴力団系の産廃業者に恐れをなしてか)堤防には廃車が山積みされたままだったのに、である。そしてこのような事態を告発することもなく、ただ単に清流あふれる鴨川上流で出馬表明をした私には、京都の南北格差に関するリアルな認識が欠けていたのである。

                        

  私の発言を聞いて、伏見の人たちが神経を逆撫でされるような気持ちになったのも無理はない。住民にとって身近なまちづくりとは、まず自分たちのコミュニティが満たされることであり美しく
なることであって、それを抜きにした抽象的なまちづくりなどあろうはずがないからである。

                        

  なお本稿は、『くらしと自治・京都』290号(社団法人京都自治体問題研究所ニュース、2004年5月25日発行)の新連載「美しきマンスリー・第2回」に掲載したものです。