3-3 団地計画学、居住地計画学、まちづくり研究の展開
それから、計画して建てられた後に実際に人が住みます。それを調査に行きます。「プラン・ドゥ・シー」ということばがありますが、プランをして、それを実践して、その結果を調査する。「プラン・ドゥ・シー」の循環サイクルが学問領域で確立した時期です。例を挙げますと、千里ニュータウンでは一〇年間かけて、南から近隣住区単位・小学校単位で住宅地をつくっていきますが、一年で一つの近隣住区をつくると、一つの人口一万人ぐらい、二五〇〇所帯ぐらいのまちができます。それをつくるためにはもちろん、イギリスの先行していたニュータウン計画の研究もやりますし、それから子ども―当時は子どもの研究が圧倒的で高齢者はいないのです−の遊び場をどうするのかというのは非常に大きな課題でした。私は子どもの研究をかなりやりました。子どもの集団の研究です。子どもはどんなメンバーで、年齢構成で、何人くらいで、どんな遊びを、いつどこでやっているのかということを、一ヶ月間子どもたちを追跡調査しました。
それからショッピングセンターも、人口が例えば一万人だったらどういう店舗構成がよいか、魚屋さんが何店ぐらいあり、肉屋さんがいて、ということを全部調べて実際のショッピングセンターを計画します。そしてその利用結果を今度は調査します。ショッピングセンター近辺の世帯の家計簿調査もやりました。
千里には分譲住宅と府営住宅と公団住宅とそれから企業の社宅住宅と、四つの住宅タイプがありました。ここで最初に一番大きな問題になったのは、この住宅タイプの組み合わせです。分譲だけのまとまりの住区をつくる、社宅だけをつくる、公営住宅をつくる、という案が一方にありましたが、これには私たちは絶対に反対でした。必ず階層格差が現れるからです。ですから一つの小学校区に、分譲もあれば公団もあるし、公営住宅もある、それを全部入れた混在型の開発でやろうということになりました。
ところが、所得や階層に違いがありますから、便利なように一番近いところにつくったショッピングセンターで、そこの人たちが本当に買っているのかということを階層ごとに一ヶ月家計簿で調べました。その家計簿は普通の家計簿じゃないのです。どこで何をいくら買ったかの記載が必要です。「りんごを五つ」ではダメで、この「りんごを五つ」は梅田で買ったのか、淡路の商店街まで行ったのか、千林に行ったのか、それとも露店で買ったのかという場所を書いてもらいます。そのため五〇〇所帯ぐらいに配りましたが、最終的に返ってきたのは一〇〇所帯もなかったです。
子どもの遊び場にしても実際に調査してみると、私たちの考え方でつくった遊び場が本当に遊ばれているのか、乳幼児用につくったところで遊んでいるのは誰か、それから小学校の低学年のために作ったのが、高学年が来て、低学年は締め出されていないかなど、そのようなことが分かります。ショッピングセンターについても、作ってもあまり人が行っていない。その理由は、一業種一店舗ということで最初はスタートしたのですが、競争原理が働かない。だから肉屋さんは高いし、魚屋さんは古いし、ということで行かない。ではみんなはどこに行くかというと、定期券をグループで買って、淡路商店街や千林まで行ってスーパーで買っていました。それでショッピングセンターが衰退するわけです。これではだめだということで、二つの住区のショッピングセンターを住区の境界線にくっつけて、そこで規模を大きくして競争原理が働くようにしよう、というようなことも考えました。しかしそれでもだめだから、今度は生協をどう位置づけるかという議論をしました。また露店がどんどん出てくるので、規制すべきか規制すべきでないか、という議論もありました。実際に計画をし、そしてその後の調査をすると、次の計画案が次々出てきます。この頃は一番楽しくて、自分の研究が本当に役立っているということを実感した時代でした。
ところが、団地やニュータウンはそれでいいのですが、その当時団地は、高度成長期に大都市に流入してきた巨大な人口のせいぜい一割か二割をカバーするにすぎませんでした。圧倒的な多数の住民は、寝屋川や守口、それから門真など大阪の衛星都市の一番立地条件の悪いところで、泥田だったところに埋め立ててつくった木賃アパートという一番安物の民間アパートに入っているわけです。それは圧倒的にブルーカラー層で、集団就職してきた人たちです。建築基準も何もなく、虫が喰い荒したようなかたちで宅地化がすすんでいく状態をスプロール開発といいますけれども、田園地帯にそのような乱開発が広がっていきました。そのようなところと千里ニュータウンなどの計画されたところとの環境格差は凄まじく、本当にこちらだけでやっていていいのかという問題意識をたえず持っていました。私としては、普通の市街地で計画の対象とならないところをやらなければいけないという思いがだんだん強くなっていき、スプロール地帯の市街地環境整備や都市の中でどんどん衰退していくような下町のような環境をどう整備するのかということをやらなければと思うようになりました。
寝屋川市などは一年間に人口で二〇%ぐらい増えていく時代で、役所は人口が増えるのはいいことだと思って喜んでいました。そこに住んでいる人たちも、そのような環境に対して不満を持っているかといえば、共働きでだいたい昼間にいないわけです。また、松下電器など大企業は自分のところで社宅はいっさい建てず、木賃アパートを社宅代わりにしました。世界のパナソニックはブルーカラー層の劣悪な居住条件のなかで生まれてきているわけです。私たちは問題だと思っていたのですが、それに着手できる術を持っていなかったわけです。ところがその中でまちづくり運動というのが出てきました。
まちづくり運動が全国的に起こる中でも少しずつ劣悪な市街地の改善に目を向けるようになってきました。また、まちづくりをする上で住民参加を促した方が得策だということで、少しずつ住民参加を取り入れるようになってきました。しかし、基本的には彼らが思い通りにやりたいわけですから、同じ意見の人たちだけを集めるというようなこともありますし、それから誘導がある場合もあり、いろんな問題が出てきます。しかしいったんそのような形で風向きが変わりますと、住民の意見を聞かないと計画はできないということが一つの市民権を得るわけです。そのころから、若い研究者たちは現場に出ていくようになりました。最近では国土交通省の政策の中に「まちづくり」ということばが氾濫しています。国がまちづくりをやるわけはないのですが。
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