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現場主義の研究者として
〜私はなぜ、すまいとまちづくりの研究を志したか〜
広 原 盛 明

3-2 建築計画学、住宅計画学の生成と特色

 次に「建築計画学、住宅計画学の生成と特色」です。学問には、興隆期というか、その学問が輝いている時期というのがどんな学問にもありますよね。建築のうちでも、特にデザインの領域は芸術の領域だとみなされていましたから、それを科学に置き換えるということはもともと不可能であるし、そういうことはすべきでないという考えがありました。事実、そういう側面があると思います。芸術というものは科学と置き換えてはいけなくて、独自の領域だと思います。理論化できないから教えるのは徒弟教育になってしまうわけで、デザインは職人の世界です。ですから、構造や設備、材料の先生は、科学的・分析的に教えることができますが、計画やデザインの先生のやり方は徒弟教育なわけです。これは、医者の世界と同じで、基礎医学から臨床にいくにつれてだんだん科学でなくなっていくという話をよく聞きますが、建築の計画やデザインにもそのような面があります。それが芸術の世界であるがゆえに、例えば、私が最初に問題・関心を持った不良住宅地区問題や部落問題を、建築の学問の対象としてどのように取り上げるかというのは、もともと対象外であったわけです。それは芸術の世界ではないわけですから。当時、帝国大学の建築の先生が設計していた家というのは、三井系だとか住友系だとか財閥系クラスの人たちの住宅です。一般庶民の家は伝統的な大工さんが全部やっていたわけで、そんなものは学問の対象ではないですよということで済んできていたし、かつみんなはそれで何の疑問も抱かなかった。なぜかというと、大学を出た建築家というのはそういう人たちで十分飯を食ってきたわけですから。

 ところが、西山先生が勉強を始めて研究者になっていくプロセスで何が起こるかというと、その一大契機となったのは第二次大戦です。住宅問題あるいは住宅政策というのは、戦争と不可分の関係があります。これは欧米先進諸国でもそうです。例えば、イギリスが福祉国家として住宅政策を全面的に展開するというのは、戦争の被害を受けて住宅が非常に不足したからです。第二次大戦で日本やドイツのファシズムと戦った兵隊たちが帰ってくるときに家がないとなれば、国民の統合を達成できない。そこで戦争で闘った英雄たちに家を、という政治運動が起こります。これは放置できないので、戦後非常に大量の公共住宅をイギリスは建てました。ところが公共住宅というのは、一人一人の人のニーズを聞いて設計する家ではないわけです。要するに大量生産しなければ間に合わない。では大量生産するときに、どのような原理でそれをデザインするのかという研究は全くありませんでした。日本はもちろん発展途上国ですからそのような発想もないのですが、第二次大戦を遂行する上で、軍事徴用というかたちで農村部から徴用した人たちに強制して働かせます。そうすると、その人たちの住む家が要ります。東京や名古屋、大阪には砲兵工廠なんていう大きな軍需工場がありますが、そこで軍事生産をやるために労働者を集める。そのときの住宅をどうするのという問題が持ち上がりました。大量生産の住宅をどのような原理に基づいて設計して供給するのかということが、社会的なニーズとしてでてきたわけです。

 そのような時代背景の中で、西山先生には庶民住宅が建築学の対象にならないのはおかしいという問題意識があり調査をたくさんおこないます。長屋の調査を始めるわけです。帝国大学の学者がそのような研究をやるというのは日本ではじめてでした。長屋というのは大体二間とか三間ぐらいで、そこにどういう原理があって、人々はどのように住んでいるのかということを調査するのです。ところがなかなかうまい成果が出てこない。一応科学的だというのに動線理論というのがあります。家の中で人々の生活をしていく上で動く線があります。例えば家事労働だと、まず物を洗って刻んで煮たり焼いたりして、出来上がったものを配膳して食べるといった、今で言う作業工程の動作分析のようなものです。そういうものから調査・分析をやってみるけれども、小さな家はそれでは全然整理できません。大邸宅では非常に部屋の機能分化がはっきりしていて、寝室や居間、ビリヤード室とか喫煙室や女中室など全部あるわけです。そういう場合は、部屋の機能を明確にして、それをどう動線でつなぐかということを考えればいいのですが、二つの部屋しかない小住宅では、そういうわけにはいきません。ということで結局行き着くところは、非常に非科学的な理論です。これは国から出てきたのですが、日本の住宅は一室でよろしいのだ、と。畳部屋で、一室で、そして夜になれば布団を敷けば寝室になり、朝が来れば布団をあげて、ちゃぶ台を出せれば食事室になる。お客が来ればちゃぶ台を片付ければ客室になる。いわゆる転用論、多目的論といわれるもので、ワンルームでいい。このような荒唐無稽なことをいうわけです。

 それに対して、西山先生は様々な形で調査を行い、後に食寝分離論というのが出てくるのですが、どんな小さな住宅を調べてみても、食べるところと寝るところはきちんと分けて住んでいる。 住生活を秩序づけようとすると、食寝分離の原則にしたがって寝室と食事室を空間的に分けなければいけない。もう一つは、人間関係の近代化が進んでいくと、夫婦と子どもの寝室は分けなければいけない。これを就寝分離といいます。この食寝分離と就寝分離というものを軸にして、住宅の設計を家族構成に応じていくつかのパターンをつくり、それを大量生産していくという理論を、「型計画」といいますが、それを作り出しました。戦時中に住宅営団という我国初めての国策の住宅供給機関が作られまして、そこの調査部に西山先生が就職して、理論を具体化しようとしたのですが、戦争に負けて全部おじゃんになりました。

 しかし戦後の復興の中で公営住宅法ができ、住宅公団法ができるなかで、大量の団地住宅の供給が初めて国策として展開され、2DKという形で結実します。NHKのプロジェクトXで、2DKの番組は二回ほど取りあげられたのですが、二回目に西山先生の理論が紹介されました。一回目は、公団の技術者の愛妻物語という形で矮小化されてしまいました。自分の妻が冷たい台所で炊いたりするのはかわいそうだということで、公団技師が2DKを開発するのですが、これについては学会から歪曲だと批判されました。そこで学問的にも理論づけて二回目の再放送がされました。この2DKは非常に画期的で、いくつかコンセプトがありますが、一つはやはり民主的な家族関係をベースにしています。夫婦の生活をきちんと確保するということと、それから一定年齢に達した子どもたちと寝室を分けるということです。それから食寝分離という生活の秩序もそうです。食事室を専用空間化する、ダイニングキッチンは家事の合理化で、これは婦人解放というものです。私は農家でしたが、農家の主婦の家事労働は一日に何里も歩くといわれているくらい、非能率ですし、衛生上も悪かった。それに比べてダイニングキッチンは、ステンレスの流し台が導入されて衛生的ですし、南側にキッチンがあって日当たりもよい。それに座ってやるのではなくて立って調理をして、そして椅子とテーブルがあってそこにパッと運んで、終わったらすぐ片付ける。省力化です。そして旦那も一緒に家事をやるという男女共同参画型です。これらを全部詰め込んだのが2DKです。ですから、あれはまさに戦時中に蓄積されてきた計画学の研究が、戦後に初めて実践的に花が咲いたものです。

 そのようななかで学会に生活を重視する西山学派というものが形成されて、それは単に京大だけでなくて、いろんな大学にずっと広がっていきます。当時は、公団住宅はものすごい公募の倍率でした。郊外生活はあこがれで、「サバーブ」と「ユートピア」を合わせて「サバービア」ということばがあったほどです。これが日本の高度成長期の時代をリードした生活イメージで、そこに電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気釜があり、美しい優しい奥さんがそばにいるというイメージで計画学が華やかになったときです。私は計画学が離陸した直後ぐらいに研究室に入っているわけで、日本最初のニュータウン(千里ニュータウンで)のマスタープランの手伝いもやりましたし、その前の、日本最初の団地は堺の金岡と枚方の香里団地ですが、そこの下働きもやりました。一方で、日本最初の住宅地区改良法のプロジェクトで、京都の東三条の部落の再開発計画にも携わりました。