2-2 行動様式
それから具体的な行動ですけれども、理論活動に専念するようなことはやっていません。私は理論家でありたいと思っていますが、同時に、それと結びついた社会的な実践が大切だと思っています。私のよく使うことばに、「天・地・人」ということばがありまして、「天」というのはその時代、「地」は地域、そして「人」です。その時代にあって、その地にあって、その人がやらなければできないような研究課題については大胆にやるし、やらなくてはならない。ごちゃごちゃ言わないで、割り切ってぱっとやる、というのが私のスタイルです。そのようにしていくつかのことをやってきました。
最初は住宅問題ですが、これには部落問題から入っています。私は、生まれは満州ハルピン市で、父親が満鉄の技師でした。戦前に引き上げて帰ってきて、実家は奈良県です。奈良県は非常にたくさんの「部落」がありまして、そしてその部落問題を小さいときから非常におかしいと思って見ていました。中学校のとき、生徒会活動をしたときに友達の家への訪問活動があり、行ってみてすさまじい状況にショックを受けました。部落問題を解決しなければいけない、と中学生の頃から非常に強く思っていて、それが建築を選んだということのバックボーンになっていると思います。まちづくりには住宅や建築が非常に重要だと思ったわけです。
それから公害問題についても、私が助手の頃からですが、京都の宮津に大きな火力発電所ができるということで、その総合的な調査グループを作って行ったのが最初です。一番長かったのは市電を守る市民運動を八年間やったことです。今、路面電車(LRT)がブームになっておりますが、そこで言われていることは、だいたい三〇年前に私たちが言ったこと、理論化したことの繰り返しで、その後は全然変わってないのです。
そして、一番メインのまちづくりの研究やまちづくりの参加ですが、これは一般的に研究するだけではなくて、そういうことをやるだけの力量をもったところと長期的に結びついて研究してきました。そのような意味で、神戸とのつながりが非常に強いです。神戸の長田区という、神戸市ではある意味で一番底辺の行政区での活動です。京都でいいますと南区や山科区になるでしょうか。そこで、ほとんど都市計画の対象として取りあげられなかった山すその乱開発住宅地の丸山地区―ここは日本で最初に住民がイニシアチブを取ったまちづくりをやっているところですけれども、ここでも一二〜一三年ずっとつきあって、そのアドバイザーをやってきましたし、それから真野地区という臨海部の、住宅と工場が混じった下町ですが、ここでは今でもまだやっています。
そういうことがあって、阪神淡路大震災があったときにも復興支援をやらなければ、となりました。当時私は学長だったので、府立大学に通っている学生のなかで被災者が何人いるのかの特定がまず最初の仕事でした。ところがその被災地域に指定されている市町村から何人通っているのかという名寄せが全然出来ない。やっとできたと思ったら、八〇人ほどいました。ところが、連絡をとれたのが六割か七割で、あとは先生方にずっとやってもらい、それでもできなくて、学生たちが全部自分で、西宮北口から歩いていって、一軒一軒訪ねて最終的に分かりました。それからカンパを集めて、支援をしました。そのようなことをしながら、同時に、神戸というのは長いつながりがありますので、そこがどうなっているのか気がかりなものですから、三日目の日曜日に自分で神戸へ行きました。西宮北口まで阪急がなんとか動いていたものですから、そこまで行って、そこから六時間ぐらい歩いて市役所へ行きましたけれども、沿道の光景は凄まじいものでした。今一番記憶に残っているのは、国道二号線の渋滞ですが、自衛隊のジープもいるし、救急車も消防車もいますが、一番印象的だったのは、霊柩車の群れでした。いろんな救援活動をやりましたが、私は専門家としての救援活動をやらなければならないということで、「阪神淡路まちづくり支援機構」を専門職能団体の連合体としてつくりました。これは建築士、弁護士、司法書士、土地家屋調査士、税理士、不動産鑑定士といった、まちづくりの、ある意味ではハードな専門職能団体のネットワークです。例えば弁護士会と司法書士会は、ふだんは仕事の取り合いで、仲が悪いわけです。ところが大同団結して、各団体が結びつきあってあらゆる相談を受け、専門家集団がグループをつくって行って、どんな質問もその場で全部解決できるというスタイルを確立したわけです。「これはどこかで聞いてください」と言って、たらいまわしにするということをしない。税金のことから権利関係のことから建物の構造のことから安全のことから、あらゆる専門家がいて全部そこで答えるというシステムを作り上げました。それから支援活動が長引いてきますと、当初の具体的・即物的な活動から、専門的・制度的なものになっていきますから、そういう意味で震災のいろんな救援活動やボランティア活動に対する専門的なアドバイスもずっと続けてきました。
それからもう一つ。私の恩師の西山卯三先生が一九九四年に亡くなられました。この方に私たちは厳しくしごかれましたけど、まあこれは冗談ですが、死んでからなおかつ私たちを苦しめたという、大変な恩師です。なぜかというと何一つ捨てなかった人なので、段ボール箱で六〇〇数十箱も資料を残して、それを全部私達が収集・整理して、場所も確保しなければならなかったのです。これは現在、NPO法人になりまして、ついこの間まで私は理事長をやっておりました。
そのようなことで、私の行動原理は、その場所にその時代が提起している問題に果敢に取り組むということです。その場所にいて、もし何もしなかったら、社会的責任を果たしたことにならない。ですから、自分がやらないといけないことが山ほどあるわけです。それを総体的・重点的にやる、という姿勢でやってきました。昔の大物理学者が、日露戦争が始まって終わったのを知らなかったという有名な逸話がありますけれど、あれと対極にいました。そのような研究領域にいたということです。
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