3.まちづくりへの参加
「まちづくり」の第2の意味は、この言葉の中に、まちづくりの手続きや計画のプロセスを大切にしたいという市民・住民の参加意識の高揚が反映していることです。「まちづくり」という言葉が生み出された1960年代当時は、驚くべきことに1919年(大正8年)に制定された戦前の旧カタカナ使いの都市計画法がまだ使われていました。そこでは、都市計画は「交通、衛生、保安、防空、経済等ニ関シ、永久ニ公共ノ安寧ヲ維持シ又ハ福利ヲ増進スル為ノ重要施設ノ計画」と定義され、都市計画は社会秩序の維持と福利増進のための公共施設計画であり、かつその計画は市民・住民でも地方自治体でもなく、全て国(建設省)が定めるものとされていました。
1968年(昭和43年)に改訂された新都市計画法では、都市計画の定義は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図るための土地利用、都市施設の整備及び市街地開発事業に関する計画」と内容的に少し拡げられ、また、都市計画決定の権限の一部が都道府県や市町村に委譲されました。都市計画事業を行う際に、関係者に対する計画案の縦覧や公聴会の開催も可能になりました。しかし、都市計画が地方自治体の固有の事務ではなく国家事務であるとする「計画高権」の考え方にはいささかの変化もみられませんでした。都市計画はあくまでも国の機関委任事務として市町村長や都道府県知事に内容に応じて委ねられるのであり、国は後見人として必要かつ充分な関与を続けることになっていました。戦前戦後を通して都市計画が「お上から与えられるもの」と観念されていたのは、このような事情と背景があったからです。
しかし、国中心の都市計画の考え方ややり方に対して数々の異議申し立てが住民の生活現場から激しく出されてきたのもまた1960年代からでした。とりわけ60年代後半から70年代前半にかけては全国で公害反対運動が燎原の火の如く拡がり、公害の有力原因でもある工場用地造成や自動車幹線道路などの都市計画決定に対して市民・住民の関心が集中するようになりました。一方、都市郊外にとめどもなく広がったスプロール開発地域においては生活基盤の整備が充分でなく、学校・保育所・子どもの遊び場・公園など子育てのための環境整備を求めて活発な住民運動が展開されるようになりました。こうした数々の異議申し立て行動の中から、「一度決まった都市計画でも問題が起こったときは見直してほしい」「都市計画決定や事業実施の際には住民の意見を充分に聴いてほしい」など、計画プロセスや計画手続きの公開と公聴に関する市民・住民の声が次第に大きくなってきました。そして、それらはやがて「都市計画は市民参加で進めるべきだ」「住民の声を反映したまちづくりでないと都市計画とはいえない」といった一般世論に発展していくのです。
これらの一連の出来事は、都市計画がこれまでのように「お上のもの」ではなく、市民・住民自身が直接的に関わりをもたなくてはならない「まちづくり」として意識されたことを示す画期的な現象でした。そして限定的ではありますが、こうした状況を反映して、一部の地方自治体では「まちづくり条例」を制定して市民・住民を都市計画に参加させようとの試みを始めるまでになりました。都市計画における市民・住民参加の発展は、近代都市計画が現代都市計画へ移行する際にどうしても通過しなければならない不可欠の道程だとされています。「手づくり」という言葉が当事者による対象への直接的な働き掛けを意味するように、「まちの手づくり」すなわち「まちづくり」には、住民が都市計画に直接的に関与し参加する意味合いが強く込められているのです。