5.合併後の周辺町村は棄てられる
それからもうひとつ、バス水没事故との関連で見逃せないのは冠水現場の舞鶴市加佐地区のことだ。加佐地区は1957年(昭和32年)に舞鶴市に編入された旧加佐町のことである。しかし、この旧加佐町には自治体としての実績がほとんどなかった。詳しい理由はよくわからないが、岡田上村・岡田下村など旧5村が1955年(昭和30年)に合体して加佐町を設置したにもかかわらず、その僅か2年後に舞鶴市に編入されてしまったからだ。
合併後の周辺町村が往々にして中心市に対して不利な立場に置かれることは、洋の東西を問わない。まして加佐地区のように旧町としてのまとまりがなく、それ以前の旧村が個々バラバラに舞鶴市と対応するというのであれば、地区住民の要求が通りにくいことは容易に察することができる。日常生活の上でも加佐地区には窓口業務をこなすだけの市の出張所(職員3人)があるだけで、地区住民は旧村集落の区長を通して市の各課へお願いするしか方法がない。市には集落コミュニティを維持していくための住民要求を受け止める総合窓口もなければ、地区出張所にまちづくり機能を持たせて集落コミュニティの活性化を図ろうとする意図もない。このような「ないないづくし」の行政対応の中で発生したのが、今回の大風水害だったのである。
激しい土石流で家を押しつぶされて何人もの犠牲者を出した集落を訪ねて山の上まで行ってみた。行く先々で聞いたのは「加佐地区は舞鶴市から棄てられた」という怨みとも諦めともつかない住民の声だった。住民に対する警戒情報や避難勧告の徹底はもとより、被災後の救援活動や緊急物資の配給についてもほとんど市としての満足な対応がなく、地区住民は事実上無防備で放置されたままだった。こんな状況のもとで辛うじて住民を救ったのが、旧村単位に組織されている20人前後の消防団だった。団員の高齢化は否めないものの、それでもこの消防団組織の存在がなければ地区住民の生命と安全が脅かされていたことは間違いない。合併された中山間地域集落は、まさに「自立自助」でしか自らの生命を守れないギリギリのところまで追い詰められていたのである。
それに加えて、今回の風水害対策では舞鶴市の行政対応のお粗末さが目に余った。死者を出した土砂崩れが起きる1時間半前に、京都府の土砂災害監視システムが崩落発生の可能性を市の防災担当課にファクスで警告したというのに、担当職員は「警戒情報の意味がわからない」として放置し、住民には情報を伝えなかったという。恐るべき無能さと無責任さではないか。ところがこのような醜態や通報の遅れに対する世論の批判が高まってくると、市長は「避難勧告や警報を出せば(避難する際に)却って住民が危険に曝される恐れがあった」として居直る始末だ。これでは上から下まで市の行政機能は完全に麻痺している(あるいは腐っている)としかいいようがない。