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広 原 盛 明
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  昨夜、新潟空港から最終便で帰宅した。新潟は遠い!石川県・富山県までは関西圏の延長上にあるが、新潟は「関東甲信越」というだけあって完全に東京圏だ。交通網もすべて東京起点になっている。関西からJRで北陸線経由で行こうとすると優に6時間はかかるし、航空便でも目的地の長岡市までは連絡時間を含めて4時間近くかかる。現地でのハードスケジュール(夜の懇親会も含めて)の所為か、睡眠不足の連続でさすがに身体にこたえる。

  現地調査は、これがあと2週間でお正月かと思うほどの暖かい好天に恵まれた。周知のごとく、長岡市を含む中越地方は日本でも屈指の豪雪地帯だ。例年なら今頃は1〜2メートルの積雪が普通で、日中気温がマイナスの日も珍しくない。それが今年はまだ本格的な積雪もないし、風もそれほど強くないという。雪の降る前になんとか仮設住宅を建てたい、被災者を避難所から無事に仮設住宅に移したい、こんな関係者の熱意が天に通じたということだろう。

  長岡商工会議所で開かれた専門家懇談会では、地元大学の研究者から今回の中越地震の特徴について詳細な説明があった。長岡技術科学大学(建設系)の中出教授や樋口助手、長岡造形大学(環境デザイン系)の澤田講師などが中核メンバーだ。中出教授は東大助手の時代からの知り合いだが、いまや地元住民や自治体の要請に応えて頑張っている頼もしい限りの人材だ。大学と地域が互いに強い信頼関係で結ばれていることは、報道陣すら近づけようとしない被災住民が、彼らグループに対してはあらゆる調査に快く応じていることでもよくわかる。

  中出教授が家族の体験も交えて語った話によると、10月23日夕方に中越地方一帯を襲った最初の地震は、震度5前後の本震・余震が10回近く間断なく続くという物凄い地震だったらしい。震度5〜6あたりの大地震になると1回だけでも恐ろしいのに、それがなんと10回近く連続して発生したというのだから、その恐怖感は並大抵のものではあるまい。鉄筋コンクリート構造の大学官舎(長岡市郊外)すら立っていることも動くこともできず、家族みんなが食堂テーブルの下で2時間も抱き合ったままだったというのである。このときの恐怖感が、その後の「車中泊」という新しい避難形態を生み出したことは周知の通りだ。

  地震学的な説明はともかく、私たちの専門分野である復興まちづくり支援の視点からいうと、中越地震の最大の特徴は広大な中山間地域すなわち過疎地域の農山村で発生した多震源型の広域大震災だということだろう。地震直後ならともかく、2カ月近くたって被災現場に行ってみると、阪神・淡路大震災のときのように密集市街地がまるごと焦土になっているような光景にはお目にかかれない。郊外の田園地域や山間地域に分散して建っている住宅や建物があちこちで傾いたり壊れたりしているだけだ。もともと豪雪地域の住宅だから建物は頑丈に出来ている。1平方メートルあたり600キロもの積雪荷重に耐えるように設計されているからだ。だから翌日調査に行った川口町(震度7)のような場合を除いては、軒並み住宅が崩壊しているようなところはまずなかった。

  だがしかし、今回の震災が「建物災害」ではなくて「地盤災害」だといわれるように、山や川、道路や農地の被害が際立って大きいことが特徴だ。よく見ると、ほとんどの山肌が崩落している。山が白く見えるので最初は落葉した雑木林の色かと思っていたら、山肌全体が屏風のように削ぎ落とされているのである。それに崩落現場の下には谷合いの川や農地があるので、それらのほとんどが土砂の下敷きになっている。また道路の寸断状況も凄まじい。最近になってやっと自動車が通れるように応急修理されたが、それまでは亀裂(というよりは破裂状態)と路肩崩れが酷くて、交通はほとんど途絶したままだった。ちなみにどの程度の道路災害だったかというと、調査の最終日に関越高速自動車道を走ったが、最高水準で施工されたはずの高速道路がまるで凸凹の状態だ。舗装の応急修理はしてあるので走れることは走れるが、中央分離帯は蛇のように曲がりくねっているし、防音壁は所々が倒れているし、直線部分の下りでは道路全体が波打っているのが手に取るようにわかった。

  こんな風だから、切り立った山間地域にある過疎集落の状況は深刻だ。建物は丈夫でも地盤が崩れては防ぎようがない。地震で道路と一緒に100数十メートルの崖下まで吹っ飛ばされた住宅や建物があった。恐る恐る上から覗いてみると、はるか下のほうにセンターラインの入った道路がそのまま押し流されているといった状況なのである。私たちは、全員が避難命令によって村外の仮設住宅に入居している山古志村に、災害対策本部の許可を得て調査に入った。