広 原 盛 明

  現在捜索中の奈良市の女子児童の事件ほど残酷で痛ましいものはない。私にも同じ年頃の長女の子どもがいるだけに、決して他人事とは思えない。どんなことがあっても一刻も早く犯人を捕えてほしい。そうでなければ、日本の治安体制や警察への信頼は取り返しのつかないほどの打撃を受けるに違いない。小さな子どもが安心してまちで遊べること、お友達と楽しく学校に行きかえりできること、そしてお父さんやお母さんが何一つ心配することなく日々の仕事にうち込めることは、まちづくりの基本中の基本だからだ。

  1960年代の高度経済成長時代にこんな出来事があった。ちょうどマイカーブームの頃で交通事故が多発し、子どもの通学路や遊び場の安全をどう守るかが学校や父母の間で緊急の課題になっていたときのことだ。当時、私は街なかで子どもの遊び場や通学路を自動車からどう守るかという研究をしていた。結論は、市街地の一定区画から自動車を締め出すことだった。いまで言えば、歩行者天国であり自動車交通の面的規制である。幹線道路が少なく細街路が網の目のように走っている京都市内では、市街地への自動車の進入を防ぐことなしには子どもの安全を守ることができなかったからである。

  ところが、道路交通法にはそんな条文がない。それどころか徹底的な自動車優先の考え方に貫かれている。道交法の趣旨は自動車をできるだけスムーズに走らせることなので、歩行者や子どもはそれを妨げないようにすることが本旨なのだ。子どもや歩行者に一方的に注意義務を強調する「飛び出すな!。車は急に止まれない」という交通標語のそれだ。だから「車を道路から締め出すことなどとんでもない」というわけである。警察庁や警視庁の交通政策担当官のところまで出かけていって何回か議論したが、当時はまったく相手にしてもらえなかった。

  このような道交法の考え方は、当然、歩行者や子どもにシワヨセがいく。いわゆる「交通安全教育の徹底」という方向へである。ある地方都市の交通安全大会のシンポジウムに出席したときのことだ。パネリストの一人だった中学校の校長先生の発言を聞いてショックを受けた。「私たちの学校では生徒全員にヘルメットと蛍光塗料を塗ったタスキを着用させ、交通安全教育に万全を期しています」という誇らしげな発言に対してだった。確かに交通事故は一瞬にして子どもの命を奪う。だから、事故防止に万全の注意を払うことに対しては誰も文句のつけようがない。でもそれだけで本当に子どもの安全は守れるのか。また子どもがヘルメットと蛍光塗料を塗ったタスキを着用しなければ外に出られないようなまちは、果たして子どもが健やかに育つまちといえるのか。校長先生には失礼だったかも知れないが、私は「子どもがどんなにふざけて脇見をしても、事故に遭わないような通学路をつくり遊び場をつくることが私たちの役割であり、本来のまちづくりなのではないか」と言った。

  だが、その後も事態はいっこうに改善されていない。車道を確保するために自転車が歩道に追いやられ、高齢者が暴走する自転車の痛ましい犠牲者になる国なんていったい世界のどこにあるというのだろうか。乳母車や障害者の電動車が歩道を走れずに車道に出たところで事故に遭うなんて、およそ文明国として考えられることだろうか。

  最初の話に戻ろう。子どもが自分の家の周りや学校へ行き来する道で不審者に脅かされたり連れ去られたりすることへの、昨今の過熱する対応ぶりをどう考えればよいのかということだ。子どもには緊急通報機器を持たせ、学校には監視カメラを設置し、登下校には家族や近所のボランティアの人たちが付き添うといった動きがいま各地で一斉に始まっている。奈良市内では婦交さんが幼稚園児を集めて、見知らぬ人が近づいてきたら「助けてー!」と叫ばせるような信じられない特訓までやっている。関係者が一生懸命なのはよくわかるし、また事態が事態だから止むを得ない緊急避難措置だという面もある。私とて自分の家の近くで事件が発生するようなことがあったら、真っ先にボランティアとして駆けつけるに違いない。

  でもそれはそれとしても、そんなことをいつまで続けるのか、またこんな対応をしなければ本当に子どもを守れないのかという疑問も一方では膨らむばかりだ。率直に言って、私はこの課題への取り組みはこれから非常に長くかかる困難な性格のものだと思う。それは、現在の子どもへの犯罪や子どもを取り巻くセキュリティ不安はある日発生した一時的な現象ではないからであり、子ども社会・子どもを取り巻く地域社会が次第にやせ細り弱体化する中で生まれてきた構造的な問題だと思うからだ。言いかえるなら、それは少子化社会にともなう構造的矛盾であり、本格的な少子化対策なしには解決できない課題だと思うからである。

  子ども社会が生き生きとして元気だった頃の光景を今一度思い浮かべてみよう。まちや村のいたるところで子どもたちがいた。いや、溢れていたと言っていい。近隣や地域では年長の子どもから幼児までの異年齢集団(タテ型集団)が自然に形成され、子どもたちは群れをなして遊んでいた。子どもたちは集団の中でお互いに守り守られていたのである。まちの風景も現在とは大きく異なっていた。沿道には店や工場があり、そこでは誰かが住んで働いていた。誰かの目が絶えず表に向かって注がれ、子どもたちの姿を捉えていた。地域社会・コミュニティが子どもたちを四六時中見守っていたのである。

  だが今は違う。急激な少子化の中で子どもの姿がまちから見えなくなってしまった。群れをなして遊んでいた子ども集団が地域社会から消えてしまった。そこでは小人数の同年齢集団(ヨコ型集団)が学級集団の延長として辛うじて維持されているだけで、それも熟通いやコンピューターゲームの前にいまや消滅寸前だ。地域から「子どもたち」が消え、家庭や熟の中で「子ども」が孤立するようになってしまったのだ。

  まちの光景も大きく変貌している。郊外の幹線道路沿いの大型店の進出のあおりを食っていまや中心市街地の商店街は閉鎖寸前の状況にまで追いこまれている。人通りのないシャッター商店街ほど寂しくて不気味なものはない。そこではもはや表を見守る地域社会の目がないのである。そして郊外の大型店周辺では、ゲームセンター、パチンコ、シネコン、ファミレス(24時間営業)などが「人里離れて」集中立地している。見守る地域社会やコミュニティのないところで、子ども・子どもたちはどうして健やかに育つというのだろうか。

  過日、京都と大阪の中間にある八幡市のまちづくりシンポジウムにいったときも、幹線道路(国道1号線)沿いに誘致されようとしている競艇の場外舟券売り場の是非を巡って会場参加者の議論は沸騰していた。すでに各種の大型店が集中しているロードサイドに加えて、なおギャンブル施設をつくろうというのだから無理もない。シンポジウムの前に現場にもいってみたが、辺り一帯は得たいの知れない雰囲気に包まれていた。すでに、大型店や複合施設の郊外進出と児童犯罪の相関関係を指摘する調査報告や論調も出ている。人里はなれたロードサイドショップの野放図な進出は、地域社会の深刻なセキュリティ不安を引き起こす危険性を私たちはもっと重視する必要がありそうだ。