12月1日:大阪市長選、京都市長選の混迷(大連立騒動の波紋、その6)
今日から師走だ。京都市長選では、自公民オール与党による門川教育長擁立の「出来レース」が目下着々と進んでいる。それに比べて、お隣の大阪府知事選では、太田知事への不支持声明が自民・公明・民主の各陣営から相次ぐなど混迷を極めているのはなぜか。また、この違いの原因はいったいなになのか。決論的にいえば、それは何よりも地元経済界の首長選挙への影響力の差によるものだろう。大阪経済界はこれまで巨大な政治力を発揮してきたにもかかわらず、最近の凋落によって地元政治への影響力を失いかけているからである。
それに比べて今回の京都市長選の基本路線は、京都経済界の意向によって事実上決まったといっても過言ではない。今年5月に新しく京都商工会議所会頭に就任したばかりの立石義雄オムロン会長は、はやくも10月定例記者会見で京都市長選挙について発言し、「候補者が出揃ってからマニフェストを点検して経済界にとって誰がふさわしいか認識して判断したい。現状の通り、市政与党の3会派が結束して候補者擁立するのが望ましい」と述べた。まるで、自分たちが市政与党に号令をかけ、京都市長を決める権限を持っているかのごときお殿様のような言いぶりだ。京都の経済界は、いまやそれほど大きな政治力を発揮するようになってきたのである。
民主党京都府連は、これまで小沢代表の勇ましい掛け声に沿って、表向きは「政令市と都道府県の首長選挙は自民・公明と相乗りしない。京都市長選では独自候補を立てる」とぶち上げていた。しかしその内実は、立石会頭のこの間の発言と指示によって一も二もなくオール与党候補の選定に入ったというのがことの真相だろう。なぜなら、現在の民主党は京都経済界の重鎮である稲盛和夫氏(京セラ名誉会長)がスポンサーになって生み出された政党であり、小沢一郎自由党党首と菅直人民主党代表の手打ちの仲介をしたのが、前原誠司民主党京都府連会長(当時)だったからである。
稲盛氏はあまり政治の表舞台には出ない。しかし行革が財界主導で進められ、政党再編の嵐が吹き荒れていた90年台末の頃には、珍しく経済人や学者らに呼びかけて「がんばろう日本!国民会議」を設立するという思い切った政治行動に出た。そのとき、「国民会議設立を思い立ったのはなぜか」との京都新聞のインタビューに対して、稲盛氏は次のように答えている。
「かつて第三次行革審で『世界の中の日本部会』の部会長を務めたが、その際、調べれば調べるほど日本が官僚主導の国だと分かった。敗戦で民主国家になったと思っていたが、実は国家の命運を決めるようなことは官僚が牛耳っている。臨調や行革審などで改革が試みられたが、国鉄、電電公社の民営化などで終わっている。ところが、小渕政権になって自・自連立を進め、官主導から民主導の体制に変えようという動きが出てきた。これは日本の社会にとって大きな地殻変動になる、と感じた。この胎動を支援し、改革を強力に押し進めるために国民会議を設立した」(1999年1月19日)。
しかし、稲盛氏にも苦い経験がある。それは2002年京都府知事選における候補者選定をめぐっての野中広務氏との激しい確執である。当時、京都商工会議所会頭だった稲盛氏は、2001年末のギリギリになって京都の経済人・文化人・学識経験者の有志を募り、元大蔵官僚で京大経済学部教授の吉田和男氏を推薦したいと自民、民主、公明、社民のオール与党各党に突如働きかけた。前以って行動を起こすと「潰される」と踏んでいたからだ。
民主党は諸手を挙げて大賛成だったが、しかしその前に大きく立ちはだかったのが、小渕・森政権時代の官房長官・自民党幹事長代理・同幹事長であり、「影の首相」といわれるほどの権勢を振るっていた野中広務氏だった。野中氏は従来からも京都の公共事業を一手に仕切る立場にあり、荒巻知事の後継者としては、自治省の天下り官僚で当時副知事を務めていた山田氏を考えていた。山田氏を擁立することで「政治後見人」としての地位を確保し、京都府政を事実上牛耳る権力を掌握しようとの思惑があったからである。
勝負は呆気なく着いた。民主党以外の支持を得られない吉田氏は年が明けてから出馬断念を表明し、山田氏が知事候補者に確定した。稲盛氏をはじめ堀場氏など日頃は京都のマスメディアで持て囃されている経済人も、こと地元政治の世界では「ずぶの素人」にすぎないことを痛感させられたのである。このあたりまでは、まだまだ土着の保守勢力を基盤とする自民党の方が強かった。それが野中氏の権力基盤となっていたのである。
しかし今回の京都市長選の相乗り構図は、二重の意味で京都の政治構造の変化を反映したものといえるだろう。ひとつは自民党と民主党の力関係の変化、もう一つは民主党内部での地方議員団と国会議員団の力関係の変化である。
2003年11月総選挙での民主党の躍進にみられるまでもなく、現在の京都の民主党の勢いはとてつもなく強い。その背景には京都の民間有力企業が成長を続け、次第に大きな政治勢力になりつつあることを挙げることができる。京都の大企業は、大阪の大企業のように本社を東京に移すことをしない。東京在住の経営者が大阪財界の首脳になるような事態は、京都では通用しないのである。だから企業が成長すれば、地元政治への影響力も自動的に増すというわけだ。すでに京都商工会議所は完全にIT関連企業のイニシャチブの下で運営されており、労働界においても民間大企業労組(IT関連企業の多くは労働組合がないにもかかわらず)の影響力が大きくなってきている。
これまで京都の民間企業は自民党の政治基盤であり、また自民党議員もその利害を代表して行動していた。でも稲盛氏に代表されるようなIT関連企業の経営者は、思考様式においても行動様式においても必ずしも自民党的ではない。野中氏に代表されるような土建資本業界の利益を体現する行動と手法には、むしろ嫌悪感さえ抱いているのである。これらの経営者には、新自由主義と市場原理主義を標榜する民主党の方がはるかに体質に合う。京都では民主党の国会議員が文字通り彼らの手足になって働いているのである。だから京都の経済界は自らの影響力を増すにつれて、もはや自民党(だけ)に頼る必要はなくなった。また、古い自民党に対して民主党系の独自候補をわざわざ立てる必要もなくなった。民主党を押さえておけば、「自民党が後から付いてくる」時代になったのである。
民主党内部でも大きな変化が進行している(完了した)。それは、これまで自民党と変わらない古い体質を持った民主党(旧社会党系)市会議員団が高齢化し、構造改革を標榜する若いネオコン型国会議員が京都府連のイニシャチブを完全に握るようになったからだ。いわば、自民党と馴れ合って同和利権と公共事業で長年飯を食ってきた市会議員団連中から、経済界の要求を忠実に実行する国会議員団に運営の中心が移行したのだといえよう。
こんな政治構造の変化を背景にして、京都では民主党が経済界の眼鏡に叶う「独自候補」をまず擁立し、次いで自民・公明がこれに相乗りするという「京都方式」が定着したようだ。自公民3党が同時に擁立するのではなく、「時間差擁立」すれば「相乗り」とはいわないとの解釈だそうである。大阪では、大阪市長選で民主に敗れた自民・公明の関係者が、これまで太田知事を担いできた政治責任は棚に上げ、今度は「京都方式でいこう」と言っているそうである(続く)。