10月26日:学生による「授業評価」を評価する(最終回)

 講義は出席するのが原則だ。出席しなければ本当の内容はわからない。他人のノートをコピーしても講義は理解できない。講義の真価は「生」(ライブ)であることだ。こんなことを最初のオリエンテーションでいつも口を酸っぱくしていうのだが、学生たちにも「出席できない事情」があるらしく、全部通して出席するのは3分の1ぐらいだろう。

 そこで、少なくとも年間の授業回数14回の3分の2以上出席しないと、「レポートも試験も採点をしない」と宣言したのだが、このハードルがどれだけ高いものだったか、またどれほど不適切な設定だったかを思い知ったのが、今回のレポートの出来栄えだった。

 率直にいうと、試験の点数は別にして、レポートの水準は出席回数とそれほど相関関係がないのである。出席回数が少ないのに優れたレポートを書いてきた学生が沢山いたからだ。それにこれは例外中の例外だと思うが、(前回の日記で紹介した)途中で同行二人になった自殺志願者とお遍路した体験をレポートにまとめた学生の場合などは、出席回数がたった3回しかなかった。これなど最初の基準からいえば、「門前払い」のケースであり、(たとえ提出しても)試験もレポートも採点しないということだった。

 この出席基準は、最初から受講生に徹底させている。彼らも十分承知の上だから「説明責任」も果たしている。厳しいルールを課す以上、それを守らない場合は厳しい措置も止むを得ない。こう考えてまず出席回数を集計した上で試験結果やレポートの採点をしたのだが、最後の総合評価のところで行き詰まってしまった。要するに合否判定をして単位を与えるか与えないかという最終段階になって、はたと困ったのである。

 出席回数、試験結果、レポート提出の3条件を課して単位を出すという私の講義スタイルは、やや抽象的にいえば、学習態度、理解度、応用力(創造性)の3種類の指標を評価基準にしているといえる。そして学習態度(出席回数)を全体の基本としてまず重視し、それをクリアーした場合に理解度(試験結果)と応用力(レポート)を評価するという方法をとっているわけだ。ところが出席回数が極度に少ないにもかかわらず試験はまずまずの成績で、しかもレポートがきわめてユニークだといったケースが出てきた。こんな時にいったいどう対処したらいいのか。

 決論からいえば、私は当初の評価方法を変えざるを得なかったのである。具体的にはほぼ相関関係にある出席回数と試験結果を一つの評価基準に統合し、レポートはこれと独立した評価基準にすることにした。つまり、どちらか一方の基準をクリアーしていれば、合格として成績をつけることに変更したのだ。たとえば出席回数と試験結果がまずまずであれば、たとえレポートの出来栄えが悪くても合格させる。またレポートの水準が高ければ、出席回数が少なくても(目をつぶって)合格させることにしたのである。

 これで合格率はかなり上がった。もちろん成績点数は両方の基準をパスしたものが高く、片方の基準だけクリアーしたものが低いことはいうまでもない。ちなみに「極端なケース」として上げた上記の学生の成績点数は、合格最低点ギリギリの60点をつけた。それでも彼を合格させたのである。

 この評価方法は多分間違っていないと思う。それは学生たちの資質や能力は単一の指標で把握できるほど単純なものではないからだ。教育という行為が「学生の多様な能力や可能性を引き出して育てる」ものであるなら、評価方法も多様な基準や手法を用意しなければならない。しかし評価方法が多様になるほど教員の負担は重くなる。かってのマスプロ講義のように受講生が数百人に達するような場合は、とてもこんなことは考えられない。画一的なペーパーテストになるのも止むを得なかった。

 でも学生数が減り、少人数教育が重視されるようになってくると、これからは学力の評価方法も大きく改善を求められることになるだろう。それぞれの教員が努力を積み重ねるなかから、優れた評価方法が生み出されなければならないが、そんな教員の努力の参考になるのが「学生による教員の授業評価」なのである。

 学生による授業評価は、「教員の人気投票」や「教員の差別化」になってはいけない。それはあくまでも「教員の授業方法を改善するための手段」にすぎないとの抑制された位置づけが必要だ。つまり、学生たちは自分たちが受講する授業の内容や水準を上げるために、担当する教員に対して「こうしてほしい」というメッセージとして「授業評価」を行うのである。受け取る側の教員は、自分自身が行うさまざまな「自己評価」と並行して、このような全学・学部共通のアンケート調査結果を参考資料として利用するのである。

 ところが最近の余り感心しない傾向として、「学生の授業評価」を教員の勤務評定に利用したり、「教育優秀教員」などと銘打って表彰したり、給料に差をつけたりする大学が出てきている。こんなことが拡がっていくと、「優秀でない普通の教員」は教育に不熱心であるとの烙印を押されかねない。授業に対する学生の評価はあくまでも相対的なものであって、教員以上に一面的な評価になる恐れがあるからだ。

 また大学での教育効果は、個人の努力だけでは限界があり、学部全体の教員集団による共同の努力がなければ実を結ばない。私の授業に少ししか出席しないにもかかわらず優れたレポートを書いた学生は、他の教員の授業やゼミで優れた教育を受けているからであって、私の授業が育てたわけではない。学生による授業評価は、大学・学部全体の教育水準を上げるために利用されるべきだという原則が必要だろう。

 とはいえ、今年度前期の授業評価は大変参考になった。「学生は鏡だ」というが、これは本当にそう思う。自分が充分に理解していない理論は学生にわかりやすいように平易に説明できないし、うまい応用例や比喩を見つけることもできない。講義をしながら自分の誤りに気付くことも多々ある。いつになっても講義は精神的にも肉体的にも負担だが、それは自分が学生の前に晒されることで絶えず評価されているからだろう。彼・彼女らの目線に応えられるだけの研鑽が求められる所以だ。

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