10月15日:学生による「授業評価」を評価する(その2)

 決論的にいうと、私は学生が教員を率直に評価することは至極当然のことだと考えている。学生の批判や評価を拒否するような教員は、学生に「教えてやっている」といった権威主義的な教育観の持主か、「先生を批判するとは何事か」といった身分意識的な人物が多いからだ。しかし、問題は評価の仕方だろう。

多くの教員はすでに自主的に学生の評価を求めてさまざまな工夫をしている。例えば、私自身は毎回の講義の最後に出席確認も含めて簡単な授業の感想を書いてもらうことにしている。自分の講義が学生たちにいったいどのように受け取られているのかを、毎回確かめることが大切だと思っているからだ。そして講義が終わると直ちに感想文を読む。この感想文は本当に面白くて為になる。まるで学生の息遣いが聞こえてくるように思えるほど、率直な生の声で溢れているからだ。

最近の学生は滅多に質問しない。こちらから当てても黙っている場合が多い。そんな風だから、実はこれまで授業中に質問がないことを講義内容が伝わっていると思い、わざわざ質問の時間を取ったり、積極定に質問を促したことがなかった。促しても思うような反応がないからだ。しかし発言のないことが、彼・彼女らが講義に疑問を持っていないとか、質問したいことがないとか思っていたら大間違いだった。

これまでの学生の授業評価をみると、私の講義に対する評価のなかで「先生が学生の質問を充分に受けているか」という項目の評価点が一番低いのだ。このことの意味するものは、学生の質問ニーズをもっと工夫して取り上げろということだろう。とりわけ大教室での講義となれば尚更のことだ。他の先生たちに聞いてみると、やはり同じようなことを感じていていろんな工夫をしていることがわかった。

そこで手始めに感想文を書いてもらい、次の授業の冒頭にその代表的な質問の内容を(名前を言わないで)皆に紹介することにした。そしてその質問に答えると同時に、補足的な説明を加えることにした。これで少しは改善されたのであろう。感想文には、補足説明に対する意見や感想がみられるようになった。

だが、この段階ではあくまでも私の講義に対する応答でしかない。もっと学生たちの授業参加への積極的な意欲を引き出せないものか。もちろん少人数教育のゼミ活動ではそれは可能だが、大教室の講義ではなかなか難しい。そこで2、3年前からまちづくりに関するレポートの作成を試みてみた。それは個人提出でもよいし、グループ作成でもよい。私の講義と並行して、学生たちに年度ごとのテーマを出して自主的なレポートを作成してもらうのである。

正直言って、このレポート提出は相当な負担らしい。「楽して点が取れる授業」が人気番組だとするなら、出席確認はする、感想文は書かせる、レポートを提出してもらう(させる)、おまけに試験までするという私の講義は、学生たちにとってはまるで「三重苦」のような授業に違いない。受講生が激減してもおかしくないのである。

かって大学の講義は、「必修科目」と「選択科目」に分かれていた。必修科目の単位を取れなければ進級も卒業もできない。だから学生たちは必死に勉強した。その代わりと言ってはなんだが、選択科目の方は少し多めにとって、たとえ赤点がついても何とか辻褄を合わせられるようにしたものだ。

しかし最近では、こんな風に学生に勉強を強要するのはよくないということで、どこの大学でも「必修」・「選択」の制度はなくなっている。代わりに「主要科目」や「コア科目」といった名称で一定範囲の講義群を指定し、これらの中から最低何単位は取らなければならないという制度に変わった。これだと特定の科目に落ちたからといって、卒業をあきらめなければならないといった不都合は解消する。

この分類からいうと、私の講義は「コア科目」ではないので実質的には「選択科目」に該当する。だから厳しいハードルを課せば課すほど受講生が減ることは避けられない。受講生が多いか少ないかということ自体が、教員に対する学生の評価をあらわすものであるから、すでにスタート時点でハンディを背負うようなものだ。

こんな懸念も小さくはなかったが、シラバス(講義概要説明)だけでは内実がわからないらしく、最初は100人を超える学生が登録した。学部も法学部だけではなくて、経済・経営学部の学生も相当いる。選択系科目なのでいろんな学部の学生が受講できるのだ。しかし最初のオリエンテーション(講義の趣旨や方法の説明)で「これはヤバイ」と思ったのか、2回目からは出席数が3分の2ぐらいに減った(続く)。
戻る