5月14日:同和犯罪・不祥事問題は「一部の問題」か、「氷山の一角」か、
(2008年京都市長選挙を迎えて、その2)

 先週の金曜日(5月11日)のNHK総合テレビの報道特集番組には驚いた。なんと夜のゴールデンアワーの午後7時30分から9時15分までの45分間、「かんさい特集」として「岐路に立つ同和行政・部落差別にどう向き合うのか」という特集番組が放映されたのだ。(ただし、大阪放送局管内だけ)

金曜日の夜は、いつも衛星放送で「チャングム」を見るのが私の楽しみになっている(これで3回目、しかし吹き替えでないので俳優さんたち、とりわけ主役のイ・ヨンエさんの生の声が聞ける)。そこで大いに悩んだ挙げ句、意を決して報道番組の方を見ることにした。新聞のテレビ欄に、「当事者が証言、行政と運動団体の歪んだ関係」とか、「いまも残る差別の実態」とか、「問題解決の道筋は」などといった刺激的なキャッチコピーが並んでいたので、それに惹きつけられたのである。

しかし正直に言って、登場人物とか番組の展開については全く期待していなかった。また、「解同公認の推薦番組だろう」と信じて疑わなかったのである。NHKは滅多に同和問題を取り上げない。しかし取り上げるときは必ずといってよいほど、「部落差別はまだ残っている」、「だからこそ同和行政は必要だ」、「それなのに同和行政が打ち切られようとしている」、「これは問題だ」といった筋書きで、同和行政を継続させるためにまるで判を押したような番組をつくってきたからだ。だから登場人物も学者・評論家・作家など一見同和問題に関係のないような肩書を付けているが、知る人ぞ知る、部落解放同盟(解同)の現職幹部だったり、その周辺にいる同調者たちが性懲りもなく繰り返し起用されてきたのである。

だが、今回ばかりは少し様子が違った。何よりも驚いたのは、先回の日記で触れたばかりの「市民ウオッチャー・京都」の寺園敦史氏がコメンテーターとして出演しているではないか。彼は文章を書かせれば超一流の優れたライターだ。しかし、率直に言って話はそれほどうまくない。個人的に話をしているときはそれほどでもないのだが、大きな会場とか、沢山の聴衆がいる場面では少し口ごもる癖がある。ハラハラしながら番組を見ていたが、しかし何とか言いたいことは伝わったような気がして一安心した。

番組の内容は、京都市役所での同和不祥事問題に関するものではない。大阪市の同和行政を食い物にして、長年、暴利を貪ってきた解同幹部であり、暴力団幹部だった小西某の同和犯罪を下敷きにしたものだ。大阪八尾市や奈良市の同和犯罪・不祥事問題にしても、その主役が解同幹部であり暴力団関係者であることは共通している。事件それ自体は、どんなことがあっても言い訳出来ない正真正銘の犯罪なので、さすがの解同側出演者もこれは擁護出来なかった。しかしそれでも、取材インタビューに応じた全国の解同責任者である組坂某が、このような犯罪を引き起こした背景として、「役所に対して多少甘えがあった」などと発言したのには仰天した。寺園氏も即座に批判していたが、この期に及んで、なお組織としての社会的責任を取ろうとしない態度には、怒りを通り越して言葉も出なかったぐらいだ。

一連の同和犯罪・不祥事問題に対する解同側の見解は、「解同路線から逸脱した一部の者による個人的な事件であり犯行にすぎない」というものだ。部落解放同盟自身の組織方針や運動方針は間違っていない、というのである。そうなると、問題を起こした「一部の者」を組織から除名すれば、問題は解決したことになる。だが、果たしてそうなのか。いま大阪・京都・奈良をはじめ関西地方一円で続々と暴露されつつある同和犯罪や不祥事問題の実態は、それが決して「一部の問題」などではなくて、まさに組織全体の「氷山の一角」であることを如実に示しているではないか。

NHKが「同和行政と運動団体の歪んだ関係」を真正面から取り上げるのであれば、部落解放同盟の同和行政との癒着、同和利権漁りなど「同和組織犯罪」の実態にこそメスを入れるべきだ、というのが私の見解である。しかし番組の構成は、この最も本質的な問題から目を逸らしている。というよりは、そこを注意深く避けて番組をつくることに腐心しているといった方が正確だ。寺園氏を起用したことは大いに評価するが、しかし、これでだけはマスメディアとしての社会的責任を果たしているとは到底言い難い。

それでは、部落解放同盟の組織的責任を問わないでどうやって番組をつくるのか。その方法は、「残存する個人の差別問題」を持ち出してそこに焦点を当てるという方法だ。過去の差別体験あるいは現在も(少数ながら)残存している差別を取り上げ、この差別をなくすために行動している解同の組織的正統性を無条件に肯定するというやり方である。言い換えれば、「差別が存在する限り、解同は必要だ」という主張であり、あたかも解同が本当に差別をなくすために頑張っている組織であるかのような描き方をするのである。

だが、解同の実態はどうか。それはもう紛れもなく「差別を口実にして飯を食っている団体」としか言いようがないのがその実態だろう。部落解放運動の原点は、差別された部落民が「普通の市民・住民」になることだ。そのため劣悪な居住環境改善が同和行政の中核事業として取り組まれ、総額16兆円に上る膨大な国家・地方自治体予算が30年有余にわたって投入され続けてきた。これだけの膨大な公金が全国で百万人前後の地区住民に対して投じられたという事実は、先進国においても発展途上国においても類を見ない。このことは「ホームレスのための国連居住年」の会議において、日本を訪れて同和地区を視察したアジアのボランティア団体の人たちが異口同音に語っていたことだ。いまや同和地区の居住環境は、周辺の一般地区とは「逆差別」といわれるほどの状況にある。

ところが、解放運動の根幹であった(はずの)、部落民が「普通の市民・住民」になっていくための人格形成や人間性の陶冶に関してはどうか。ここに京都の解同関係の団体、「NPO京都人権啓発センター・ネットからすま」が2003年3月に刊行した『被差別部落と京都再生のまちづくり〜「法」失効後に問われるもの〜』というパンフがある。このパンフは、「ネットからすま」主催の連続講演会の記録を収録したもので、そこでの講演者はいずれも解同路線に理解の深い大学教授や研究者である。

しかしそのなかで指摘されていることは、この間の同和行政およびそれと癒着し依存してきた物取り主義的な解同路線が、地区住民の人間性向上や人格形成すなわち文化的低位性の克服において完全に破綻しているという冷厳な事実だった。

「部落における低位な生活実態は、直接的な差別・排除によるものではなく、文化的・経済的低位によるもの」、「日本の部落では負の遺産としての文化的な低位性が再生産されている」、「京都の同和地区では比較的恵まれた階層が地区外に流出し、地区人口は同和事業が始まってからの30年間で4割に激減している(6割が流出した)」、「地区住民の無業者率(家事従事、通学者を除く)は4分の1に達し、うち6割が就業意志(働く意欲)を持っていない」、「この変化は、同和事業を30年間実施した結果起こった。同和事業というものを通して、逆説的ともいうべき状況の悪化が生まれた。この結果だけを見て、状況が悪化しているんだからまだ同和事業を続けるべきだという議論が起こると思うが、しかしそれは逆であって、それをすると、多分もっと悪化していくに違いない」などなどである。

ここには、「差別は行政の責任だ」、「だから同和行政が必要だ」、「行政からは取れる物は取れ」、「もらえる物はもらえ」、「楽をして飯を食えればそれに越したことはない」といった解同路線が、どれだけ地区住民の人格形成を妨げ、人間性の陶冶の障害物となり、普通の市民・住民になっていく道を塞いできたかが、解同に近い当事者の眼で検証されている。差別をなくすための部落解放運動が、逆に「同和トラップ(罠、わな)」となって地区住民を縛りつけ、その上に立って解同幹部が「差別は残っている」といって、永遠に「差別を飯の種」にしていこうとしている醜悪な実態が暴かれているのである。

京都市職員の同和犯罪・不祥事問題の根源は、実はこの地区住民の人格形成や人間性陶冶の欠如に起因している。負の遺産としての文化性の低位が克服されず、それが運動団体を媒介にして市役所の職場の中で歯止めのない肥大化・増殖を遂げたところに、同和「選考」採用職員問題の格別の深刻さがあるのである。(続く)

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