4月1日:夕張の灰色の3日間、「夕張ショック」が物語るもの(その4)

「夕張ショック」の発信地、夕張市に入ったのは3月18日のことである。札幌からバスで2時間半余り、平野部から夕張トンネルを抜けると途端に積雪量が多くなる。地吹雪もあるせいか、道路の両側には防雪柵が設けられている。そこでの光景は、夏場の景色とは打って変わった一面灰色の銀世界だ。案内役の道立夕張高校の熊谷先生が、雪の降るバスターミナルにまでわざわざ私たちを迎えに来てくださっていた。

私は過去2回、夕張を訪れている。最初は夕張全盛時代の1960年代半ば、2回目は北炭夕張新炭鉱で大爆発事故が起こる少し前の80年代のはじめだった。夕張に足を運んだのは、いずれも炭鉱住宅の調査のためである。夕張の炭鉱住宅街は、その規模といい集積密度といい、わが国の産炭地を代表する有数の存在だった。企業住宅すなわち社宅の典型例である炭鉱住宅は、住宅政策の研究にとっても欠かすことの出来ない重要な調査対象だったのである。

夕張にはこのようなことでおよそ20年置きに来ている勘定になるが、来るたびに街の変貌ぶりには驚かされる。最初に来たときは、谷間一面の斜面をぎっしりと埋め尽くした通称「ハモニカ長屋」の大密集群に圧倒された。炭鉱住宅がハモニカの穴のように横一列に並んでいることから、私たち住宅研究者は炭鉱住宅のことを「ハモニカ長屋」と呼んでいたのである。しかし夜になると、炭住街は不夜城のように輝いて、「百万弗の夜景」さながらの光景に一変する。当時は石炭の増産に次ぐ増産のため、終日3交代勤務の突貫作業が行われていて、炭住街は夜も眠ることがなかったのである。それに夕張には封切館を含めて映画館が十数館もあり、中心の本庁商店街は10軒もの呉服店が軒を並べるほどの賑わいだった。商店街はいつもごったかえしていて、僅か200〜300メートルの通りを抜けるのに半時間もかかったという。飲み屋街が昼夜ぶっ通しで繁盛していたのは言うまでもない。

2回目は、「ハモニカ長屋」から改良住宅(市営住宅)へ炭住街の建て替えが盛んに進んでいるときだった。相次ぐ炭鉱の閉鎖にともなってすでに多くの炭鉱住宅が不要になり、また老朽化も進んでいたので、老朽長屋を壊して整地したり、あるいは鉄筋アパートへの建て替えが始まっていたのである。関西では「改良住宅」といえば同和住宅だと思われているが、北海道や九州の産炭地では炭鉱住宅の建て替えに改良住宅が適用されていたので、その実態調査に行ったのだ。また当時、映画賞という映画賞を総なめにした山田洋二監督の「幸せの黄色いハンカチ」が大評判だったこともあって、ロケ現場にも行ったが、すでに映画の舞台となった5軒長屋の周囲からはほとんどの炭住が姿を消していた。でも、そのときは私の主たる関心は改良住宅調査にあったので、背後に起こっていた炭鉱閉山にともなう地域環境の激変にはあまり気付かなかった。

3回目の今回は、この前の訪問からもうすでに四半世紀も時間が経過してしまっているので、何度街を往復してもいっこうに記憶が戻ってこない。というよりは、季節が冬場の積雪期であたり一面が雪に覆われていること、そしてなににも増して炭住街がすべて姿を消してしまっていることに根本的な原因があるのだろう。何しろその変貌ぶりたるや並大抵のものではない。かっては川沿いの谷間に1千戸近くの長屋がひしめき、数千人もの住民が暮らしていたあちこちの炭住街が、映画館や商店街などとともに、いまや忽然と無人の荒野(雪原)に変化してしまっているのである。まるで映画セットのなかの「ゴーストタウン」を歩いているような気持ちなのだ。また思い出の深い「幸せの黄色いハンカチ広場」も訪ねてみたが、そこはもう昨年10月から閉鎖されていて、道路は除雪もされていなかった。吹雪の中を100メートル余りの雪道を頑張って歩いてやっとたどり着いたが、無人の吹きさらしの小高い丘には老朽化した5軒長屋がポツリと残されているだけで、ロープに張られた黄色いハンカチが強風のなかで千切れるようにはためいているだけだった。

無理もない。夕張市のピーク時の人口は1960年の11万6908人、それがこの半世紀近くの間に僅か9分の1に激減してしまったのだ。実に9割近い人口が夕張から消えてしまったのである。2005年10月の国勢調査人口は1万3001人だが、その後も激しい減少傾向はいっこうに止まらない。2000年から05年までの年平均減少人口は358人、それが2006年からは600人に達する勢いとなっている。この4月1日から財政再建計画が実施に移され、公共施設の閉鎖と公共料金の値上げが一斉にはじまると、人口流出がさらに加速することは確実だ。市内最大の職場である市役所職員の半減にともない、札幌や札幌郊外の千歳・江別・北広島市などに職を求めて、若手・中堅職員の子ども連れ家族の移転が始まっているからである。

夕張の3日間は、実に考えられさせることの多い3日間だった。熊谷先生の案内で6つの地区(本庁、若菜、清水沢、南部、沼ノ沢、紅葉山)と主だった公共施設や観光施設をほとんど見て回った。また率直な意見を述べてくれるいろんな人にも会った。石炭歴史村の草刈作業を解雇されて生活保護を申請している一人暮らしのお婆さん、故郷の役に立ちたいと決意して東京からユーターンしてきたが職が見つからない大学卒の女性、駅前の小さなレストランを死守すると覚悟を決めているシェフの夫妻、閉鎖が決まっている市立美術館の館長、経営危機に直面して民間観光会社に移管されることになったホテルの支配人、まちづくりNPOを立ち上げて何とか夕張を再生させたいと願う観光協会役員、夕張岳の開発に身を挺して反対運動を続けてきた自然保護運動の女性リーダー、閉鎖される市役所連絡所の若手職員、夕張高校で長年教鞭をとってきた教員組合の指導者、炭鉱日雇労働者として辛酸をなめてきた労働組合役員、議会のなかで孤軍奮闘している女性議員などなどである。

いろんな人たちから生々しい話を聞いたが、なかには偶然ながら「予期せぬ出会い」もあった。ある事務所に訪れたときのことだ。扉を開けようとした途端に大きな胸バッジをつけた派手なスーツの「それらしき紳士」が出てきて、「羽柴です。よろしく」と言っていきなり握手されてしまった。避ける間もない瞬間の出来事だ。後でわかったことだが、この人物は、全国各地の選挙という選挙に出馬しているかの有名な青森県の羽柴秀吉氏だったのである。その日の午後に夕張市長選出馬のための記者会見を開くというので、午前中に市内各地の挨拶回りしていたというわけだ。おそらく羽柴氏が選挙目当てに握手した最初の民間人は、(投票権のない)私だったのではあるまいか。

そういえば、18日付けの北海道新聞の一面トップ記事には、「出馬、全国最多の19人? 当選しても『いばらの道』、夕張市長選、乱戦模様」という大見出しがデカデカと踊っていた。今回の夕張市長選は現職の後藤市長が出馬しないこともあって、羽柴氏の他にも全国各地から立候補予定者らしい人々が殺到している。既に住所を移している人もいて、市営住宅に入居しているときく。立候補予定者のなかには、千葉県や香川県の元市議、横浜市の元会社役員、それに素性のよくわからない東京・京都・沖縄の人たちもいるという。地元から立候補を表明しているのは、「土建派」と称せられる保守系市議たった一人である。夕張がいまや全国の注目を浴びているのを、「千載一遇の機会」として利用しようとする人たちがこれほど沢山いるのは驚く他はない。売名行為とも受け取られかねないこんな人たちに果たして夕張の運命を託してよいものか、暗澹たる気持ちになった3日間だった(続く)。
戻る