3月28日:バブル時代の最終ランナー(小樽市)の惨状、「夕張ショック」が物語るもの(その2)

 3月17日の午後、小樽市の市民会館で開かれた市民団体や市役所職員との懇談会のなかで、河合教授とともに午前中に現場視察した小樽築港駅周辺の巨大開発プロジェクトについて感想を求められた。そのとき、私はためらうことなく「小樽市はバブル時代の最終ランナー」だと言い切った。

 JR小樽駅の南東約3キロに位置する小樽築港駅は、もともと北海道各地の産炭地から国鉄で運ばれてくる石炭の積み出し港だった。取り扱う石炭量は年間300万トンに達するほどの膨大なもので、そのために広大な敷地の貨物ヤードと港湾施設の確保が必要だったのである。しかし夕張と同じく、小樽も石炭産業の消滅という北海道の産業構造の激変から免れることができなかった。加えて国鉄の解体・民営化という輸送交通体系の激変がこれに輪をかけた。その結果、広大な港湾施設と国鉄築港駅・貨物ヤードは一転して遊休地と化したのである。小樽は、明治以来、北海道の地域経済を支えてきた「石炭と国鉄」という基幹産業を失う危機に直撃されたのだった。この危機に直面して、小樽と夕張は都市の歴史や立地条件がまったく異なるにもかかわらず、同じような方向の地域開発政策を選択した。それが「石炭(炭鉱)から観光へ」というスローガンに象徴される開発戦略の大転換だった。

 夕張と違って、小樽にはもともと観光開発の条件と基盤があった。しかし、それは皮肉にも資本や行政がつくり出したものではなく、市の小樽運河埋め立てに反対する「小樽運河を守る会」の市民運動の中から生まれたものだった。高度成長期に決定された小樽運河を埋め立てて臨海道路を建設するという都市計画事業に対して、1973年に「小樽運河を守る会」が発足し、学識者、住民を巻き込んで激しい市民運動が展開された。1980年には函館と共催で「全国街並みゼミ」が開催され、全国から多くの市民や専門家が運河保存のために集結した。私の恩師の故西山夘三も何回となく小樽を訪れて現地調査し、市民運動を激励している。

 この歴史的遺産の保存をめぐる市民運動は、北海道はもとより全国的にも空前の広がりを見せた運動だった。しかし、結果は若干の都市計画変更に反映されただけで、運動そのものが成功したわけではない。1982年に埋立工事が着工され、4年後には小樽運河の幅が半分に埋め立てられて、結局、都市計画道路は開通した。だが、保存運動が小樽のまちづくりに与えた影響はきわめて大きかった。運動の趣旨や世論を反映して、市役所内でも歴史的建造物や都市景観への意識が高まった。そして一方では、埋立工事強行への市民の批判を和らげる政治的意図もあって、着工翌年の1983年に「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」が制定された。その中身は、歴史的建造物の指定と歴史的街並み保全のための景観地区の指定、つまり「点」と「面」の二本柱による歴史的景観の保全を目的としたものだった。また1992年には、この保全型の条例に新築建物などによる都市景観の創出や緑化推進を盛り込んで一本化した「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」が制定された。同時に建築都市部内に「都市デザイン課」が設立され、小樽らしい魅力ある街並み形成をめざすことになったのである。

 ここまではよかった。保存運動が全国に知れ渡った影響で、小樽は一躍「北国の情緒」を感じる観光名所として脚光を浴びるようになった。年間300万人にも達する観光客が訪れるようになったのである。もしこの方向で「小樽らしい街並み」の形成をめざすまちづくりがその後も地道に追求されていれば、今日の小樽市の惨状も破綻もなかったであろう。

 だが、歴史はそうは簡単に進まない。時ならぬ観光ブームに眼を着けた新谷前市長(1987〜1999年)は、一方で「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」を進めながら、もう一方では民間開発業者なども含めた「小樽築港駅貨物ヤード跡地等再開発まちづくり構想検討委員会」を立ち上げていた。そして1993年には、「JR小樽築港駅周辺について、地区環境を考慮した未利用地の有効利用などの検討を行い、ウォーターフロントの特性を生かした商業レクリエーション機能を主体として複合機能の進展を図る」とする「小樽築港駅周辺地区整備基本計画」を策定した。だが、同地区は都市計画上の用途指定で工業地域(建ぺい率60%、容積率200%)の規制がかけられていたので、商業地として開発するのは難しい。そこで小樽市は当時の運輸相と掛け合って規制の緩和を主張し、広域誘致による商業施設計画も可能な立地とした。このような運輸省を巻き込んだ規制緩和は、日本の再開発でも稀な例とされている。このときから、今日の破綻につながる巨大開発プロジェクトがスタートしたのである。

 小樽のウオーターフロント再開発計画について具体的に説明しよう。それは、国鉄函館本線の貨物駅廃止に伴って国鉄清算事業団の処分用地となった貨物ヤード跡地22ヘクタールを種地にして、その周辺地区を含めて55ヘクタールを再開発しようという巨大なプロジェクトである。計画の発端は、マイカル(旧ニチイ)の子会社である「小樽ベイシテイ開発」が国鉄清算事業団から貨物ヤード跡地18ヘクタールを取得し、百貨店、ホテル、レストラン、劇場、フィットネスクラブ、ホテルを併設した一大複合商業施設の建設構想を新谷前市長に持ちかけたことが切っ掛けだ。「小樽ベイシテイ開発」が上物施設に800億円投資するので、小樽市は基盤整備(土地区画整理、港湾道路・下水道・公園整備など)に165億円投資しろというのである。このときのマイカル小林会長は、9万8千平方メートルの大型店舗と関連娯楽施設の開業で年間集客数900万人、年間売上げ高620億円(小樽市全売上高の4割)は確保すると豪語したという。

しかしこれがどれほどの桁外れの構想だったかは、類似のウオーターフロント再開発計画と比べてみるとよくわかるだろう。たとえば「神戸ハーバーランド計画」とではどうか。国鉄神戸駅の浜側、湊川貨物駅の廃止にともなって、1985年に都市計画決定され、92年に完成したハーバーランド計画は、ホテル、地下商店街、レストラン、大型量販店、オフィスビル、産業振興センター、公団住宅、都市公園などを網羅した22ヘクタールの一大再開発計画だ。「神戸開発会社」との異名をとる人口140万人の政令指定都市神戸が、その総力を挙げた取り組んだ大型プロジェクトである(それが今では、ダイエーの閉店などが引き金になって閑古鳥が鳴いている)。またウオーターフロント再開発ではないが、いま日本中の話題をさらっている東京都心の森ビルの「六本木再開発計画」(六本木ヒルズ)でも11ヘクタールだ。東京都の通常の駅前再開発計画の規模は、せいぜい1ヘクタールから3ヘクタールまでだ。人口が僅か20万人に満たない小樽市で、神戸のハーバーランドの2.5倍、六本木ヒルズの5倍の再開発計画を実施することが、どれほど無謀で「身の丈に合わない」プロジェクトであったかがよくよくわかるというものである。

 1998年、「マイカル小樽」は商業アミューズメント施設としてオープンし、また北海道初のヒルトン系ホテル「ヒルトン小樽」もオープンした。この巨大施設の開業によって、1998年度は上半期のみで190万人もの観光客が増加した。新谷前市長は、「21世紀の幕開けを目前にした今日、地方分権は地域間競争時代、新たな地域間格差が生じる時代への幕開けともいわれております。こうした時代の転換期に、小樽市総合計画『市民と歩む 21世紀プラン』を平成10年度からスタートさせ、将来都市像を冒頭の表題として掲げ、市民とともに知恵を出し合い、恵まれた自然景観や歴史的な遺産を最大限に活用し、21世紀における魅力と活気にあふれる『はつらつ小樽』を目指したまちづくりを進めております。この再開発では、小樽市が土地区画整理事業や港湾整備事業などによって基盤整備を進め、特に運輸省が所管する臨港地区内における土地区画整理事業の施行は、全国的にもまれなケースで建設・運輸両省の決断によって実現したものです。すでに港湾整備事業により臨海公園が供用開始され、現在、水際線に散策路の整備を進めております。将来的には、2期マリーナの建設も予定しており、親水空間の整備によって小樽の魅力はさらに高まり、広域集客の実現や滞在型観光への移行が図られ、ひいては本市全体の活性化が図られるものと期待しております」と胸を張った。

 しかし1998年当時の日本はとうにバブルがはじけ、開業から僅か2年後の2000年9月には、「マイカル小樽」の母体が経営破綻した。さらに「マイカル小樽」の経営にあたっていた「小樽ベイシティ開発」もその煽りを食って連鎖倒産した。その後、地元19社が出資した管理会社が経営を引き継ぐが、2002年1月には「小樽ヒルトン」が民事再生法を申請し、同年3月には「マイカル小樽」から「ウイングベイ小樽」と施設名が変更された。私たちが現場に行った17日は土曜日であったが、航空母艦のような広大な店舗には人影もまばらで、暖房の利いた最上階の見晴らしフロアには、自宅での暖房費を節約するために周囲の高齢者たちが集っていた。終日たむろして時間を過ごすのだという。

 こうして、バブル期に旧マイカルの大型商業施設に代表されるハコモノ建設に狂奔し、急激に借金(市債)を増やした新谷前市政は、任期最後の1999年には、借金を1424億円にまでに膨らませたまま、山田現市政にバトンタッチした。(続く)
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