3月26日:北海道における小泉構造改革と地方分権改革の先取り、「夕張ショック」が物語るもの(その1)

統一地方選挙がはじまる直前の1週間、3月16日から22日まで冬の北海道へ自治体調査に行ってきた。夕張に3日間、小樽に1日、札幌と江別に3日間の日程である。この調査は、札幌市郊外の江別市にある酪農学園大学地域環境学科で地方自治を教える河合博司教授の御好意と案内によるものだ。河合教授とは30数年来のお付き合いで、京都では各自治体の調査をいつもご一緒した仲である。

酪農学園大学は、大正初期の冷害凶作期にデンマ−クの歴史にならい、北海道の大地を酪農によって沃土として農業・食糧の確立発展を図るべく、酪農教育・農民教育機関として「北海道酪農義塾」として1933年(昭和8年)に創立された歴史と伝統ある私立学校だ。創立者の黒澤酉蔵氏は、田中正造の指導の下で足尾銅山鉱毒事件の究明のために身を投じたクリスチャンであり、雪印乳業の創業者としても名高い。地域環境学科は、黒澤氏の掲げた「健土健民」(健康な環境の中こそ健康な民が生まれる)という建学の理念に沿って1998年に設立された新設学科である。

今回の調査目的は、小泉構造改革の下で多大のダメージを被り、いまや「地域格差」の象徴ともなっている北海道各地の自治体事情をつぶさに見ようというものだ。また「地方分権改革」の総仕上げとして導入されようとしている道州制について、その先取り事例といえる北海道の実態に触れたいという思いもあった。

だが、北海道はあまりにも広い。それに季節は暖冬とはいえあくまでも積雪期だ。これまで夏場に北海道を訪れたことは幾度となくあるが、冬場は初めてのことなので行動半径には限界がある。それに私は運転免許書を持っていない。そこで今回の調査は、いま話題の夕張と小樽に絞ることにした。また札幌と江別での時間は、道全体の事情を話していただく大学研究者や自治体関係者との懇談に充てることにした。

小泉構造改革の下での「地方分権改革」の特徴は、新自由主義政策に基づく徹底的な自治体の効率的再編成、すなわち国土における地域自治体の「選択と集中」政策にある。「国土の均衡ある発展」という国家目標を投げ捨てて、資本と市場にとって余分な地域は切り捨て、必要な地域だけを選択して行政投資を集中するというのがその狙いである。言い換えれば、資本活動にとっての最適空間を自治体再編によって実現しようとするのがその目的なのである。

この目的からすれば、小規模な市町村自治体が国土の各地域に分散している現状はいかにも効率が悪い。そこで国土を7〜8の道州に分け、そこに首都となる巨大な地方中枢都市を整備する一方で、全国で3000を超えていた市町村を当面は1000、将来は300程度に大幅に整理して「基礎自治体」とする。そして「中2階」といわれる府県は廃止して、国家機関ともいうべき道州と基礎自治体からなる2層制の上意下達構造の「地方自治制度」をつくろうというのである。

これが果たして「地方分権改革」という名に値するのか、また出来上がった制度が「地方自治制度」といえる代物なのかは別にして、もともと府県がなくて道庁があり、かつ市町村自体も大規模化している北海道の自治体においては、道州制を先取りした地域構造がみられる。この構造に基づく矛盾はすでに早くから道内各地域で顕在化しており、それがとりわけ激しくなったのが、小泉構造改革の影響をもろに被った小樽市の衰退であり、夕張市の破綻だというわけだ。小樽市は札幌市への一極集中の犠牲になった地方都市の代表例であり、夕張市は「基礎自治体」の「成れの果て」の典型だとみなしうるからである。

その概要をみよう。かって小樽は札幌を凌ぐ北海道第1の港湾産業都市だった。小樽は北海道開発の拠点として国を代表する貿易港に指定され、市内には「北のウオール街」といわれるほどの銀行街が形成されていた。北海道区制が実施された1899年(明治32年)には、小樽区の人口は6万2千人で札幌区の4万1千人をはるかに上回っていた。市制施行直前の1920年(大正9年)の第1回国勢調査においても、小樽区人口は10万8千人で札幌区の10万3千人を凌駕していた。また高等教育機関についても小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)が創立されたのは1910年(明治43年)であり、北大の前身の札幌農学校が東北帝大農科大学に昇格した頃とほぼ時を同じくしていたのである。

ところが、その後の両都市の推移はすこぶる対照的だ。小樽市は高度成長期の1960年代は20万人台を維持したものの(最高は1964年の20万7千人)、それ以降は減少の一途をたどり、2007年2月末現在は14万1千人、ピーク時から32%減となっている。しかも深刻なことには、人口減少にいっこう歯止めがかからない。年平均の減少数の推移をみると、1960年代1200人、70年代1580人、80年代1950人、90年代1250人、2000年以降1790人となって、むしろ最近は減少数、減少率ともに加速してきている。

一方、道庁所在地の首都・札幌市は、戦後に周辺市町村を吸収大合併して飛躍的な人口増加を遂げ、2007年2月末現在189万1千人となって東京都区部を含めて国内第5位の大都市に成長した。小樽市に比べて実に13.5倍強の規模である。年平均の人口増加数も、1960年代4万9千人、70年代3万9千人、80年代2万7千人、90年代1万5千人、2000年以降1万1千人となって、道内の他都市が軒並み人口を減らしているにもかかわらず、現在も依然として増加傾向にある。
激しい人口減少は、小樽市の経済を直撃している。つい先日公表された人口10万人以上都市の2007年地価公示価格をみると、小樽市の住宅地価格は対前年比で9.2%も下回り、2年連続で全国最高の下落率となった。その背景には、小樽築港駅周辺巨大開発事業等による1300億円強の巨額借金と道内初の2年連続の赤字予算にみられるような財政破綻状況がある。この惨状は、「夕張ショック」と二重写しになって、小樽全市民の両肩に重く降り掛かっているのである(続く)。
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