11月4日:ヴェトナム再訪(続き)

会議の模様は次のようなものだ。復興都市計画、建築・住宅設計、建設工事の3グ
ループに分かれて、まず日本側があらかじめ打ち合わせてあったテーマについて大筋
の講義をする。これに対してヴェトナム側が質問をして意見交換する。これの繰り返
しだ。こう書くと何だか淡々と進んだように聞こえるが、実際は大違いで、大学ノー
ト1頁分の講義に約1時間という超スローペースでしか進まなかった。
原因は通訳である。日本語をわかる通訳がほとんどいないのだ。空港に出迎えてく
れた女性も日常会話には事欠かないが、専門技術用語が飛び交う会話には全くのお手
上げ状態でてんで役に立たない。そこで日本語のわかる中国系技術者が仲介役にな
り、我々の講義をまず中国語に直す。次に中国語のわかるヴェトナム技術者がそれを
ヴェトナム語に直す。こんな二重通訳の繰り返しで講義も質疑応答もこなす破目と
なった。
質疑応答などは本当に大変だった。一問一答でさえ往復7人分の発言を要すること
になる。その間の時間をお互いが辛抱強く待っているわけだから、これはもう忍耐力
以外の何物でもない。1日8時間の会議が終わると、もう声も出ないぐらい消耗する
始末だ。これを10日間もやったのだから、いまから思うと大したものだ。若くでも
なければ到底出来ない仕事だった。
しかし、ホテルと会議場のピストン往復の毎日では神経が到底もたないので、打ち
合わせや昼寝の時間を削ってよく散歩に出かけた。夕方などホテル近くのホアンキエ
ム湖にはよく行ったものだ。ブラウスとズボンそして菅笠(すげがさ)といった質素
な服装だが、清楚な美人や若いカップルが湖畔で夕涼みをしているのをみると、心が
自然と癒されるのだ。私はもともと風景画よりも人物画の方が好きだが、このときほ
ど平和な光景が尊いと思ったことはない。我々の直前にハノイにきて滞在していたア
メリカの俳優ジェーン・フォンダさん(ヘンリー・フォンダの娘さんで反戦運動の闘
士だった)もこの質素な服装がいたく気に入って、菅笠をいくつも買って帰ったと言
う。
それに道端の屋台にもよく立ち寄った。麺、餅、春巻きなどを香草を入れてその場
で作ってくれる。立ち食いのときもあれば、床几台みたいなところに腰を下ろして現
地の人たちに混じって食べたことも多い。写真は原則として禁止されていたらしい
が、私たちには特に注意もなかったのでカメラはいつも持ち歩いて思った場所を撮っ
た。ヴェトナムの人たちも特に気にする風でもなく、自然な態度で接してくれていた
ように思う。ただ一度だけ、少年のような若い兵士に撮影を阻止されたことがあっ
た。ひょっとするとそこは軍事施設だったのかもしれない。北爆がいつ再開されるか
もしれないということで、市内には高射砲陣地も防空壕も至る所にあったからだ。

 会議も少し軌道に乗った頃、突然ファン・バンドン首相が会いたがっているとの連
絡が来た。ホーチミン大統領が亡くなってからは大統領席が空席になっていたので、
当時の北ヴェトナムの最高指導者は首相だった。その人が会いたいというのだから仰
天した。そこでフランス植民地時代の総督府だった大統領宮殿におもむいてファン・
バンドン首相に謁見したが、私がとりわけ強い印象を受けたのは、眼光炯々とした容
貌もさることながら、彼がまとっていた紫色の優雅きわまる絹の衣服だった。アメリ
カとの生死をかけた戦争を一方で繰り広げながら、指導者にはその全てにわたって国
の威信を託している国家の意思をこれほど強く感じたことはない。

 会談は予定を超えて1時間近くに及んだ。単なる儀礼的な表敬訪問ではなく、戦後
復興に取り組むにあたっていま北ヴェトナムが当面している技術的問題点を率直に話
してほしいとの要望に応えての話だったからだ。もちろん同行した建設省の幹部たち
も聞いているわけだから、それが事実上の中間総括になったといえよう。私たちが強
調したことは、大規模な復興計画を構想するよりは、いま入手できる建築材料と機材
を用いて暫定的な復旧復興に全力を挙げること、そのためには設計や工事現場の仕事
の抜本的な効率化が不可欠であることの2点だった。この時の私の経験が、その後の
阪神・淡路大震災の復興計画をめぐる議論の下敷きになっていることはいうまでもな
い。

 謁見も終わりに近づいたとき、「みなさんはヴェトナムの文化や芸術に触れました
か」と首相からふと聞かれた。「私たちは仕事に来たのであって観光に来たのではあ
りません」と答えたところ、「建築家がその地の文化や芸術を理解しないでいい仕事
ができるはずがない。今夜はわが国の文化に触れてください」とのことで、早速オペ
ラ劇場での伝統芸能の鑑賞に招待されることになった。訪問以来はじめての文化的な
一夜だった。

 それからの北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)は、1975年4月のサイゴン
陥落後、1976年6月に南北を統一してヴェトナム社会主義共和国となった。住宅
政策も1986年12月に「ドイモイ政策」(ドイは変わる、モイは新しくという意
味)が採択される以前は、社会主義諸国の援助による中層公営集合住宅が中心であっ
たが、ドイモイ政策以降は市場経済の導入にともない分譲集合住宅(マンション)が
大規模団地方式で大量に建設されるようになった。日本の建設コンサルタントが進出
して団地・ニュータウン開発に技術協力を始めたのもこの頃からのことだ。

 でも私には戦争後の70年代・80年代の住宅政策のその後の行方が気にかかる。
焼け跡に放置されたままのアパートはあれから一体どうなったのか。ハノイ市南部の
キムリエン団地、中心部に近いザンボー団地、タインコン団地などの復興状況を是非
ともこの目で見てみたい。これらの団地は当時戦時中の爆撃で工事が中断されたまま
になっていたが、戦後は工事が再開されたコンクリート造のアパート群だ。間取りも
1DKから2DKで炊事設備は練炭用の竈しかない。ここで4人から5人家族が住むことに
なっていた。戦後の日本と寸分変わらない情景がいまどう変化したかをこの目で見た
いのである。

 今回はまたホーチミン市も訪れる予定になっている。旧南ヴェトナムの首都サイゴ
ンだ。ここでは市場の動きが一段と活発で、住宅建設は専ら高所得者向けに重点がお
かれ、勤労者層の住宅事情が厳しくなってきているといわれる。日本の専門家は賃貸
住宅の供給に重点を移すことによって土地投機を抑え、開発を節度あるものに抑制す
ることが必要だと助言してきたが、その成果についても確かめたい。

また都市計画の面では、ハノイの市街地再開発がどのように進んでいるかが関心の的
だ。ハノイ市内の市街地は、フランス植民地時代は総督府を中心にしてフランス人た
ちが住む中心市街地と、その周辺に広がる「鼠の巣」といわれる密集したヴェトナム
人居住区に画然と分かれていた。私が訪れた当時は、旧市街地の再開発計画もあるこ
とはあったが、むしろ重点は郊外の新首都計画に向けられていた。それがどうなった
のか、これも今回の再訪の大きな目的である。

このところ連日、鳥インフルエンザのニュースが伝えられている。ヴェトナム、タ
イ、カンボジアあたりが震源地だそうだ。若干の不安もあるが、健康に充分注意して
初期の目的を全うしたい。帰国は14日、改めて感想を記したい。(なお、悩まされ
続けてきたパソコンの凍結状態は、本日、ベテランの専門家に依頼して無事解決しま
した。こんなことなら初めから頼めばよかったと思いますが、これは全て結果論で
す)。