11月3日:ヴェトナム再訪

 自宅のパソコンの修復見込みがまだ立たない。部品交換に手間取り、設定に手間取り、電話相談も全てたらい回しで、もう神経がズタズタだ。それにしてもどうしてこれほど不親切なのか。製造元もケーブル会社も「他所に聞いてくれ」というばかり、最初から技術者に来てもらえばよかったのだ。修復を焦ったのには理由がある。明後日の5日から10日間、ヴェトナムに出張することになっているからだ。ヴェトナム戦争が完全終結して今年でちょうど40年目、その復興ぶりを確かめたいとかねがね思っていたところ、ヴェトナムで仕事をしてきた都市計画コンサルタントのOBたちがその機会をつくってくれたのである。

 私とヴェトナムとの関わりはそれほど強いものではない。でも「特異な体験」という点では多分人後に落ちないものがあるだろう。それは1973年1月27日、アメリカと北ヴェトナム(ヴェトナム民主主義人民共和国)との間でパリ和平条約が締結され、翌日の28日に停戦が実現した直後に、私を含めて4人の都市計画・住宅建築の若手専門家がヴェトナム建築家協会から招聘されて、戦禍の跡も生々しいハノイ市を訪れることになったからである。

 当時のパスポートには、この旅券は東ドイツ・北朝鮮・北ヴェトナムを除くと記されていた。いずれも日本と国交を結んでいない国のことだ。だから日本国内には北ヴェトナムの大使館も領事館もなかった。ビザを取るには一旦国外に出て、北ヴェトナムの外交施設がある国に入り、そこでビザを発行してもらってからハノイ空港に向かうという面倒で緊張に満ちた手続きを踏まなくてはならない。そこで羽田空港から週1便のビルマ(現在のミヤンマー)・ラングーン行きの飛行機に乗り、そこで数日間滞在してビザを取った後、これも週1便のハノイ行きに乗り換えるというルートでハノイに入った。2月末のことだ。

 そのときに降り立ったハノイ空港の光景はいまなお脳裏に焼きついている。凸凹の滑走路の他はほとんど何もないオープンスペースがただ広がっているだけだった。物凄いアメリカの空爆で建物という建物がほとんど姿を消してしまっていたのである。その殺伐とした滑走路に花束を持った3人の出迎えの人影があった。もう遠い昔のことだから大方のことは忘れてしまったが、私たちの通訳をしてくれた若い女性の面影だけは何となく覚えている。北朝鮮の日本語学校に留学していたという女性だ。以降、彼女は出国するまでの私たちのありとあらゆる面倒を見てくれた。

 1日目は型通りのセレモニーで終わり、2日目からは早速会議が始まった。建築家協会といっても、民間企業のない北ヴェトナムでは必ずしも民間組織ではない。数少ない建築家は政府や自治体の高官である場合が多いからだ。会議の場所が建設省の中にあったように、実質的にそれは政府の主催する会議だった。ハノイ中心部の官庁街の建物が爆撃されていなかったのは、近くにソ連や中国の大使館があったからだと後で聞いた。さすがのアメリカもソ連や中国を巻き込んで第3次世界大戦になることだけは避けたいと思っていたのであろう。

会議の冒頭、なぜ北爆が中止されたばかりの段階で私たちが招かれたのか、その理由がわかった。北ヴェトナムと同じくアメリカの空爆で灰燼に帰した日本がどうして奇跡の戦後復興を遂げたのか、それが知りたいというわけだ。もとより私たちは相手側にそんな大それた意図があるとは露知らずに出かけていったので、それに応えられるだけの用意があるはずもない。それに日本の終戦時にはまだ物心がつくかつかないかの世代でもあり、戦後復興計画についても知らないことが多かった。

 それでも行った以上は可能な限り期待に応えなければならない。幸い日本から手当たり次第持っていった資料や参考書が案外役に立った。全部で60キロもの重さの文献類をへとへとになりながら4人で手分けして運んでいったのである。重量制限オーバーで超過料金を取られないように、大部分を機内持ち込みにした苦労が実ったというものだ。

 標準的な1日のスケジュールは大体次のようなものだ。朝5時半に起床、6時から朝食、7時から4人の打ち合わせ、7時半に出迎えの車、8時から会議、12時に終わって宿舎で昼食、午後3時まで昼寝休養、3時半から後半の会議、7時半に終って宿舎で夕食、9時半から4人の反省会、11時半就寝というものである。

 北ヴェトナムの朝は早い。鶏よりも人間のほうが早く起きるというくらいだ。朝の4時頃からもう街頭のざわめきが聞こえてくる。私たちの宿舎は「ホアンキエム」という美しい湖の畔にある小さなホテルだった。部屋数にして10室程度の規模だろう。ふだんはいろんな要人たちが泊まっているらしいが、私たちの滞在期間中は「人払い」の配慮でもあったのか、他に誰も宿泊客がいなかった。ホテルらしいホテルがない当時のハノイでこれほどの待遇を受けるとはまるでVIP扱いではないか。こんなことはおそらく「最初で最後」だろうとお互い言い合ったものである。

 敗戦後の日本と同じく、当時の北ヴェトナムも極度の食糧難に苦しんでいたに違いない。しかしホテルでの食事はヴォリュームもたっぷりあって、味付けも上品でとても美味しかった。とくに朝のお粥に「ニョクマム」という魚で作った醤油を掛けるとえもいわれぬ風味が出て、何杯もお代わりしたものだ。それに麺類も美味しかった。同じ東南アジア系ということなのか、食材も味付けも日本とほとんど変わらない。だから毎回、飢えている人たちには申し訳ないと思いながら、それでも食べないと身体が持たないので破格の好意に甘えることにした。2月から3月にかけては乾季なのだが、それでも暑さと湿度との闘いで体調を維持することが非常に難しかったからだ。事実、それほどのハードワークだったのである。

 会議のメインテーマは住宅復興だった。日本と同じくハノイの市街地はアメリカの絨毯爆撃に遭ってほとんど瓦礫の山だった。人々は焼け跡のバラックに住んでいた。会議の後半になって見学に行った港町のハイフォンも同じだった。如何に早く大量の住宅を建設するかが戦後復興の最大の課題だったのである。日本のプレファブ住宅についても多大の関心が集中した。しかし工場という工場はすべて破壊し尽くされているので、日本と同じシステムを持ち込んでも実現性がない。またソ連型のコンクリートパネルを組み立ててつくる集合住宅(アパート)も工事が全て中止したままだった。建設機械が破壊されていたからである。だから一挙に本格的な住宅建設システムを構築することは不可能だった。本格復興は長期的な目標として一旦はさて置き、当面の緊急課題として暫定的な復旧復興をどうするかが会議の主題となった(続く)。