9月23日:彼岸を超えての残暑の厳しさ

 今日は秋分の日。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、今年はいっこうに涼しくならない。京都では6月末から30度を超える厳しい暑さが3カ月近くも続くという異常さだ。まるで「トタン屋根の上の猫」みたいな気持ちになる。今年は夏休みらしい休みを取らなかった所為か、それとも年齢要因からかわからないが、とにかく疲れのひどいことおびただしい。この調子だと9月末から始まる講義やゼミが心配だ。少しは休養が必要かもしれない。

 しかし自然の異常さは京都だけではない。アメリカでも超大型のハリケーンが相次いで発生するなど、これまでにない異常気象が続いている。海面の温度が上昇し、それがハリケーンの発生や大型化を促しているというのだ。なぜ海面温度がかくも上昇するのか。地球温暖化の影響とまでは結論が出ていないらしいが、ハリケーン災害と関連してブッシュ大統領が京都議定書からの一方的な離脱をしたことへの批判が次第に高まってきているという。ようやくここにきて、彼の戦争政策と防災政策そして環境政策の「負の関係」がアメリカ国民にも理解され始めたらしい。

 先日も関西学院大学での災害復復興興制度研究会の席上、講師として招かれた内閣府の防災政策担当者からこんな話が出た。それはブッシュ政権になってから戦争政策(テロ対策)が前面に出るようになり、それと反比例して防災対策と環境政策が予算面でも組織面でも後退の一途を辿っているというのだ。ニューオーリンズを中心としたハリケーン・カトリーナ災害はその集大成だったという。これは別のところで聞いた話だが、FEMA(連邦緊急事態管理庁)はその頭文字を取って、いまや“Forget Everyone but Metropolitan Area”、「首都圏のこと以外は全てを忘れている組織」だといわれているそうだ。日本でいえば、「東京以外は関係ないよ!」というところだろう。

 そういえば、ブッシュ大統領の政治手法は小泉首相のそれとよく似ている。というよりは、小泉首相がブッシュ大統領のやり方を真似ているといった方が正確だろう。これは遅まきながら総選挙後に気付いたことだが、小泉首相の「シングルイッシュー・ポリティックス」(単一争点化政治)といわれた例の郵政民営化選挙は、実はアメリカの9・11事件を利用したブッシュ大統領のテロ戦争政治手法とそっくりなのだ。国民の生活を取り巻く複雑な諸問題や困難があたかも一つの政策で解決されるかごとき錯覚を与え、マスメディアを総動員して国民全体を単純思考に追い込んでいくというヒトラーまがいの手法だ。国民の全ての関心と思考をテロ戦争に集中させ、それ以外のことは忘れさせるか放置するといった世論操作的なやり方だ。

 小泉自民党の郵政民営化選挙でもこのやり方が忠実に再現された。郵政民営化をすれば、国民の税負担は軽くなり、経済状況は好転し、社会全体の構造改革が前進するという「特効薬」「万能薬」みたいな売り方がそれだった。郵政民営化と「改革」を叫んだだけの候補者たちの小泉チルドレンは、単にその売り子にすぎなかったのだ。広告会社が人気商品のコマーシャルにいったん成功すれば、消費者は売り手の中身など細かく詮索はしない。売り子の外観や服装がそれらしく商品のイメージに合ってさえいれば、消費者は疑うことなく商品を買うものなのだ。小泉選挙のシナリオや宣伝手法に関しては広告会社の最大手が深く関わっていたというが、このやり方はまさに広告宣伝会社そのものだといえよう。選挙活動が商業宣伝活動に支配されているこのような現状は、また別の意味で政治の危機だといわなければなるまい。

 今日で総選挙から2週間近く経った。この間の事態の推移をみていると、なんだか空恐ろしくなるような気さえしてくる。まず民主党の代表が岡田氏から前原氏に代わった。現在の民主党の体質は誰が党首になっても同じだが、その中でも思想的にも政策的にも最も右寄りとされる人物が代表に選ばれたのはちょっとした驚きだった。加えて鳩山幹事長、松本政調会長、野田国体委員長の「ネオコン三羽烏」が執行部に登用された。いずれも自民党顔負けの改憲論者であり、日米安保体制の信奉者だ。

 首班指名選挙でも自民党造反派議員はほぼ総崩れだった。刺客を差し向けた張本人に対して舌の根も乾かないうちに投票するのだから、いったい「造反」は何のためだったのかといいたい。自らの政治信条や政策理念をかくもやすやすと投げ捨てるとは、日本の政党政治の底の浅さを嘆かずにはいられない。

 憲法改正のための特別委員会設置も本会議であっさり議決された。自公民3党の揃い踏みだ。テレビでその模様をみていたが、議場の全員が立ち上がったような印象を受けた。圧倒的多数による採決で、「確かな野党」など反対勢力の姿はほとんど見えなかった。これは大変な事態になったと改めて感じた次第だ。国会の内と外は世論が違うとよくいわれるが、このような光景がテレビで毎回繰り返して報道されるようになると、国民の中に諦めに似た感情も広がってくるのではないか。これからの憲法9条擁護運動は、よほどの戦略と戦術を構えて臨まなければならないだろう。

 折しもドイツでは18日に総選挙が行われた。選挙前は、シュレーダー首相が率いる社会民主党と緑の党の連立与党とメリケル氏が率いる保守系野党のキリスト教民主・社会同盟の一騎討ちだといわれていた。連立与党が「改革」を標榜し、保守系野党がさらに「改革の加速」を競い合う選挙だったのである。日本流にいえば、両勢力とも国民への「痛みの競い合い」を演じていたわけだ。しかし結果は予想に大きく反してどちらも過半数を獲得することができず、「社会的公正」と「福祉社会国家」の堅持を掲げて新自由主義路線に抵抗した左翼党が躍進した。

 私は日本とドイツの2つの総選挙結果を見て、残念ながら彼我の政治的水準の格差を感じずにはいられなかった。思うに、日本の戦後福祉社会は高度経済成長の「おこぼれ」としては実現したが、国民の政治的選択の結果として実現したものではなかったということだ。労働組合も国民も「パイの論理」の中でしか自分達の生活のあり方を考えてこなかった。だからこそ、経済が好調で財政が豊かだったから福祉も実現したのであって、肝心の経済を支えるためには、国民や労働者はその分「痛み」を甘受しなければならないという小泉改革の言い分に抵抗出来ないのである。そして今回の自民党の大勝は、「改革なくして成長なし」といった経済主義的・新自由主義的イデオロギーに多くの国民が抵抗出来ない状態に置かれたことによってもたらされた。

 一方、戦後の政治活動を通して福祉社会国家を選択したドイツでは、このような新自由主義的な「痛みの論理」に屈伏しなかった。人間としての尊厳と生活を保証するための政治こそが政党の使命ではないかと問うたのである。日本がドイツに追いつくためには、もう1週か2週、政治的経験を積まなければならないのかもしれない。