9月30日:まちづくりの焦点、商店街の再生
珍しく3日連続でまちづくり関係のイベントや研究会が相次いだ。24日は伏
見御香宮参集殿で京都の建築家・技術者たちが開催した「伏見建築・まちづくり展」のシンポジウムへの参加、25日は中京区の商店主たちの経営交流会でのミニ講演、26日が都市住宅学会の都心郊外研究委員会の「京阪くずはモール」の見学会だ。
共通しているテーマは、当面するまちづくりにとっていまや商店街の再生が死活問題になってきていることだ。24日のシンポジウムにパネラーとして参加した大手筋商店街振興組合の理事長さんの話を聞くまでもなく、そんな想いがひしひしと伝わってくる。伏見大手筋商店街といえば、京都南部を商圏とする全国的にも「元気な商店街」として知られている。同商店街は、地元の「伏見の酒」を全部取り揃えて利き酒のできる店をつくるとか、酒蔵を改造して地ビールの飲めるビヤホールやレストランにするとか、大倉酒造の母屋を酒造り博物館にするとか、近辺の酒造会社と協力してまちづくりに努めてきた。
同時に、購買客や観光客の掘り起こしのために、TMO(Town Management
Organization:まちづくり会社)の「夢工房」を設立し、酒蔵コンサートや寄席の開催、高瀬川の十石舟の復元と運行など各種の歴史文化的なイベントにも積極的に取り組んできた。その成果は年々の観光客の増加にもあらわれており、また
商店街にシャッターを降ろしている店が1軒もないことでも明らかだ。
しかし1971年頃からこの商店街の近所に住み、30数年にわたってずっと商店街の動向をウオッチングしてきた私の目から見れば、商店街の必死の努力にもかかわらず、まちは確実に衰退への道を辿っているように思える。第一、最近になって商店街の人通りがめっきり減った。とくに週末は激減しているのではないか。夕方になると途端に人通りが少なくなり、かっての人込みと雑踏ぶりがまるで嘘のように感じられるほど寂しい雰囲気に一変する。それに中心の大手筋商店街を取り巻く周辺商店街の衰退ぶりも著しい。納屋町・風呂屋町・中書島・丹波橋といった豊臣城下町の町人町の伝統をひく中小商店街がいずれも風前の灯火なのだ。伏見のまちのコアであり面的な広がりを持っていた商店街群が、いまや大手筋商店街だけの「路線商店街」に縮小されようとしている。まさに「面から線」への後退現象が進行しているのである。
原因は複合的なもので一口に言うのは難しいが、大まかにいえば日常生鮮食料品は郊外の大型スーパーに取られ、買回り品は都心の四条河原町界隈や京都駅ビルのデパートや専門店街に奪われているといったところだろうか。いわば都心と郊外の両方から挟み撃ちにあっているのである。伏見区は人口29万人、京都市内でも最大の行政区であり、地方の県庁所在都市に匹敵する人口規模を有している。それなのにこの有様では将来の行く末が案じられるというものだ。
でも、同様のことは京都市内の中心部でも起こっている。中京区の商店主たちの話を聞くと、最近は工場跡地や駅前への巨大スーパーや大型店の進出が相次いでいるという。島津製作所の工場跡の「ダイヤモンドシティ」がその典型で、近く京都駅前には「ヨドバシカメラ」も進出するらしい。都心だから、中心市街地だからといって安心していられない。うっかり油断していると、お得意さんを根こそぎ持っていかれることにもなりかねない。いったいどうすればよいのか。
店主たちの口からこもごも出た意見は、もはや「モノ」を売るだけでは駄目で、「ひと」と「まち」を売る以外に自分たちの生きる道はないというものだった。品揃えや安売り競争では大型店にとても歯が立たない。店主が商品に関する専門的な知識と親切な接客態度を身に付け、顧客を惹きつけるだけの魅力と力量をもつこと。商店街が単なる商品売り場としての空間ではなく、そこに来ることが楽しくて居心地がよいような場所にすること。これがポイントだというのである。
だが、私はそれだけでは駄目だと思った。郊外のショッピングモールやアウトレットモールでは、すでに「ひと」と「まち」を視野に入れて巨大な空間がまるでテーマパークのように設計されている。買い物客がいったん駐車場に車を乗りつければ、あとは自動的に買い物をしたり、映画を見たり、子供を遊ばせたり、食事をしたりするようにモール全体が完璧にデザインされているのである。またそこでの接客サービスは、マニュアルにしたがって徹底的にトレーニングされている。だから、人々はそこで長時間を快適に過ごすことができるのだ。
問題は、地元の商店街が「ひと」と「まち」というとき、彼らがいったいどんな具体的なイメージを持っているかということだろう。大型店と同じ内容では負けるに決まっている。その商店街独自の「ひと」と「まち」がそこになければ最初から勝負にならない。ところがそれが必ずしもはっきりとしないのである。たとえば中京区には例の木屋町も含まれている。私などは木屋町の性風俗店をこのまま放置すれば、京都の都心地域や中心市街地は本当に死んでしまうと深刻に思っているが、商店主の中には「人を呼び込める店ならあってもよい」と肯定する意見もあるのである。
私のいう「ひと」と「まち」は、まちの歴史・文化を大切にし、地域コミュニティをしっかりと維持しているところからしか生まれない。なぜかというと、大型店は「新しさ」や「豊富さ」を演出できても歴史・文化はつくれないからだ。まちの歴史・文化は長い時間をかけて熟成しなければ生み出せないものだからである。ショッピングモールやアウトレットモールはどれだけ華やかなものであっても、所詮は「仮設建物」にすぎない。ダイエーがいま全国で数十店舗を一斉に閉店しようとしているが、これなども「仮設期間」が過ぎたからだと思えばそれほど驚くにあたらない。
「誇り」という言葉がある。そのまちに住むことに住民が誇りを持つということは、そのまちに誇るに足る歴史と文化があるということだ。商店主たちがその誇りを共有している商店街は、大型店が絶対に生み出すことのできない魅力を持っているに違いないのである。商店街の再生が地域の歴史・文化を生かす街づくりと切り離せないのはこのためだ。
それからもうひとつの大切な言葉に「愛着」がある。これは住民が自分の住んでいる地域に親しみを感じ、いつまでも住み続けたいと思う気持ちのことである。この地域への愛着は、コミュニティの人間関係の豊かさと確かさに根ざしている。だからコミュニティが崩壊すれば愛着心も消滅する。そこに親しい友達がいる、安心して子供を遊ばせることのできる仲間がいる、困ったときに声を掛けてくれる知人がいる、留守を頼めるご近所がある。こんな安心コミュニティの存在が商店街の空気を和ませ、商店主たちの顔を人懐こくするのである。
地域に誇りを持ち愛着を持つ人々は、買い物ひとつをとってみても「地元主義」になっていくのではないか。いまは郊外や都心の大型仮設店舗に惹かれているとしても、やがては本物の店舗と笑顔のある地元商店街に戻ってくるのではないか。こんなことを伏見と中京で話したが、はたしてどれだけの商店主が共感してくれたであろうか。