7月25日:レポートの採点

 このところ学生たちのレポートの採点に悲鳴を上げている。このくそ暑い季節にどうしてこんな難行苦行をしなければならないのか。2百数十人のレポートを読むだけでも大変なのに、出席確認を兼ねて書いてもらった感想文(6回分)も一人ひとり読んで、出席回数を集計しなければならない。そしてレポート点と出席点を勘案して点数をつけ、分布図をつくり、概ね正規曲線を描いているかどうかを確認してから合否点を決める。これだけでほぼ1週間が消えるのだから、手間ひまのかかることおびただしい。

 それにしても学生間の出来不出来の格差がこれほど大きいのはどうしてだろう。明らかに手を抜いたと分かるのはまだいい。努力さえすれば可能性がある(と思える)からだ。しかし真面目に出席しているにもかかわらず、どうしようもないほど陳腐で平板な内容しか書けないレポートに接すると、思わず溜め息が出てしまう。そこには感情の高揚もほとばしりもない。文章を書く喜びも感じられない。ここぞという意気込みもない。ただ字数を並べているだけの無味乾燥なレポートが結構多いのだ。

 今回のテーマは、「私にとってのお気に入りの場所・空間」を内面的に掘り下げて書くというものだった。それがどんな場所なのかという説明力とともに、「なぜお気に入りなのか」という社会心理的な分析力を求めたレポートだった。都市政策論の講義でなぜこんな課題を出したのか。それは学生たちにこの講義を単なる知識としてではなく、自らのまちづくりの課題として主体的に受け止めてほしかったからだ。私は最後の講義でその意図を次のように述べた。


都市に関する認識と理解は、近代市民の普遍的教養のひとつだ。現代社会では都市はもはや普遍的な存在であり、都市や都市生活を否定して私たちは生きていけない。とすれば、都市に対する基本的な認識と理解は、いまや近代市民の最も基本的な教養と化しているのではないか。
だが、人間の行動規範になるような真の教養は机上の勉強だけでは獲得できない。教養は人格の形成にかかわり価値観や行動の土台となるものである以上、それは絶えず現実の生活の中で洗練され陶冶していくものだ。言い換えれば、都市に関する教養は、たとえその行動がどれほど些細なものであったとしても、「まちづくり」の実践を通してしか育むことができない性格のものなのである。

私の講義はまちづくりへの入門ガイドである。講義は、諸君がまちづくりへ参加するための必要不可欠の入門ガイドなのだ。講義を聴くことは内容をそのまま無批判に受け入れることではない。講義は、教授の話を素材にしながら、まちづくりのテーマについて自分の考え方を形作っていく得難い機会であり、集中的思考のプロセスなのだ。私語はただ単に騒がしいから問題なのではない。自分や周辺の人たちの思考回路を絶ち切るから問題なのだ。
今回のレポートづくりは、まちづくり体験への第一歩である。まちづくりは、PLAN/DO/SEEというプロセスから構成されている。都市・都市生活上の問題点を発見し、将来動向を見極め、対応策を考え、解決するために行動し、その結果を検証し、新たな改善策を提起する。この繰り返しである。
だが、まちづくりは決して義務感でするものではないし、また拘束的なものでもない。それは自己発見と自己実現の場であり、生き甲斐を創造する機会なのだ。諸君に「お気に入り」の場所を選んでレポートを書いてもらったのは、その喜びの一端でも味わってもらいたかったからだ。提出するためだけのレポートづくりなら、苦痛そのものではないか。それでは、まちづくりの「否定体験」にしかならないというべきだ。


こんなことを述べたのは他でもない。いま法学部では、法科大学院(ロースクール)設立後の学部の役割と存在意義をめぐって議論が混迷しているからである。専門職業人教育としてのロースクールの位置づけはそれなりに明確だ。司法試験という資格認証試験が厳然としてあり、それに合格するだけの能力をつけさせるという教育目標がはっきりしているからである。しかしそうなると、従来からの法学部教育はどうなるのか。法学部で学ぶ学生がすべて司法試験を受けるわけではないが、それでも教育目標は法曹の育成に向かって設定されていた。しかしこれからは必ずしもそうとはいえなくなる。

法学部のなかでも政治学科の場合はもっと複雑だ。政治学科は、もともと設立趣旨として政治家養成を掲げているわけではない。強いて言えば、政治と関係の深いあるいは政治的理解の深い行政職の養成すなわち公務員教育あたりが狙い所だったのではないか。でも公務員への入り口がますます厳しくなり、かつリストラの標的にされるような昨今の情勢では、その存在意義が薄れてきている。学生たちの応募動機を見ても学習態度をみても、専門意識・職業意識が必ずしも明確ではない。教室での私語がはびこる所以だ。

法学・政治学教育には全くの素人だが、私の考えはこうだ。法学部に限らず文科系学部は、基本的に「リベラルアーツ」(教養学)中心に再編成するのである。もちろん「リベラルアーツ」といっても単線的なものではない。経済学・経営学を軸とするリベラルアーツ、社会学・人類学を中心にしたリベラルアーツ、法学・政治学を中心にしたリベラルアーツ、哲学・歴史学・教育学を中心にしたリベラルアーツなど多様な複線系があってよい。しかしその基本的性格は、「専門教育」ではなくてあくまでも「教養教育」に重点を置くというものだ。そして各分野の専門教育は専門職業人を養成する大学院で担当出来るよう、現在の大学院教育のカリキュラムを大幅に改善すればよい。

こんなことを考えるのは、最近の学生たちを見ていて「近代市民としての生きた教養」の必要性を痛感するからだ。細切れの受験科目をただ詰め込むだけの高校教育では、そもそも「学ぶ喜び」や「知的好奇心」が育つはずがない。そして大学に来ても、卒業後の就職方向がいっこうに定まらない状況の下では専門科目や専門教育への興味や関心が芽生えるはずもない。むしろ彼・彼女たちに必要なのは、このような複雑系社会を見る目を養うことであり、そのなかで自らの進路を主体的に切り開いて行けるような実践的行動力を身につけることなのではないか。

私は「都市政策論」の講義の中で、公務員試験に役立つような話もしなかったし、都市政策の仕組みや制度の解説にもあまり力を注がなかった。それよりも彼・彼女らが一人の市民として都市社会を見つめ、生きていけるモチベーションを与えたかった。それがどれだけ成功したか、今回のレポートの出来ばえは、私の講義に対する採点でもある。素晴らしい感性と意欲に溢れたレポートもあればそうでないのもあって、まさにその内容は玉石混淆だ。でもそれが「私の鏡」である以上、素直に受け入れるほかはない。とはいえ、溜め息と内心忸怩たる思いが重なって、このところ私の心は何となく晴れない。