7月16日:寿岳章子先生のこと

 虫が知らせたとでもいおうか、前回のつれづれ日記で京都府職労と蜷川知事のことについて書いたが、その翌日の午後4時過ぎ、熱烈な蜷川フアンだった寿岳章子先生が亡くなられた。享年81歳である。

 寿岳先生、いや章子先生と呼ぼう。先生との思い出は山ほどある。蜷川府政は知事の個性を反映してきわめて特色ある施策を展開したが、なかでも教育行政と農林行政は「西の文部省」「西の農林省」といわれたほど全国的にも有名だった。私も若いころからその一端に参加し、社会教育分野では「ろばた懇談会」(通称ろば懇)の助言者、農林分野では京都府農業会議の専門委員などとして、教育や行政現場の息吹に触れてきた。寿岳先生にお会いしたのは、その「ろば懇」の助言者会議の席上だった。当時、章子先生は京都府立大学の新進気鋭の国語学者。その人に向かって文学と国語学との区別も知らない質問をして、「だから理科系の人はダメねえ!」と嘆かせたことがそもそもの知り合いのきっかけだ。その後、私は府立大学に移ることになるが、どこかで噂を聞きつけられた先生が、「あなた本当にうちに来るの?」とさも不思議そうな顔をされたのを昨日のことのように覚えている。

 あまりにも沢山のことがあってなにから書いていいか迷ってしまうが、やはりその天真爛漫なお人柄について語るのが一番ふさわしいだろう。エピソ−ドは数えきれないほどある。まずなによりも家族思いであり、両親を尊敬しておられた。先生と話をしていると、いつのまにか寿岳家の話になってしまうのだ。さもあろう。お父様の寿岳文章氏はダンテの研究者として知られる著名な英文学者、お母様はリベラルな評論家、弟さんは天文学者というように、まるで絵に描いたような知的で民主的な家庭なのだ。

 いまならバリバリのセクハラ発言だが、章子先生を囲んで若手が集まったある懇親会の席上で、「先生はなぜ結婚しないのですか」と口々に聞いたことがある。われわれの認識では、寿岳家があまりにも快適で幸せすぎるものだから家を離れられないのだろうというものだった。いまでいえば「パラサイト」である。しかし。さらりと返ってきたのは、「戦争でいい男がいなくなったのよ」という言葉だった。一同息を飲んで黙ってしまったことを覚えている。随筆家の岡部伊都子さんが戦争で失った婚約者のことをことある度に書いておられるが、章子先生の本音を聞いたのはたぶんわれわれだけだろう。

先生は座談の名手だった。またスピーチの達人でもあった。その場の雰囲気をこれ以上のものはないと思うほどの巧みな表現で切り取って言葉にされた。それが文章になると、見事なエッセイとなった。あまりにも見事な喋り口なので、いつも口惜しい思いにさせられていた若手研究者たちは、「寿岳先生は3分間喋らせると抜群だが、30分以上話をさせると支離滅裂になる」などと日頃悪口を言っていた。でも定年退職の記念講義は1時間半近くあったが、理路整然と話されて一同グーの音も出なかった。

章子先生はまたなによりも文化や芸術の愛好者でもあった。なかでも京都の本物の文化を心から愛しておられた。しかし文化や芸術といってもスノビッシュな(貴族趣味的な)ものではなく、「暮らしのなかの」文化であり芸術だった。沢山の著書の題名もそれに類するものが多い。それは間違いなくお父様の影響だろう。文章氏は柳宗悦やバーナード・ショーなど民芸運動の創始者たちと深い親交があった。自らも和紙の研究者だった。章子先生には一度ならず自宅に招いていただいて御馳走になったが、民芸風の住まいをはじめとして室内の調度品や食器にいたるまで、ひとつひとつが選び抜かれ、磨き抜かれた逸品揃いだった。 

それにしても最初の訪問のときのことが忘れられない。玄関に入った一瞬、えも言われぬ香りが漂っているではないか。お盆に近い季節だったのでお線香かとも思ったが、後で文章先生の書斎に通されたとき、文章先生が自ら香を焚いて迎えていただいたことを知った。こんな出迎えをうけたことは、私にとっては初めての経験であり、また途方もない感激だった。

章子先生はこのように生粋の京都文化人であると同時に、また「憲法を暮らしのなかに生かす」蜷川府政の熱烈な信奉者でもあった。京都の文化を支える土台に蜷川府政があり、憲法があることをだれよりも知っていた人だった。そしてだれよりも民主府政の再建を願っていた人だった。それにしても、「憲法を守る婦人の会」のリーダーとして終生を貫かれた生きざまは見事というほかはない。

昨日の午後は道が焼けるほどの暑い日だった。祇園祭の宵々山の日だ。浴衣姿の学生たちが三々五々出かけてゆく。そんな華やかな空気の中を向日市の寿岳家に向かった。ご両親のときと同様に、一切の宗教色のないただただお別れのためである。きれいなお顔の章子先生が横たわれた柩にご著書と花束を入れ、身近なお知り合いの方々とお送りした。

章子先生、安らかに眠ってください。