6月26日:同和終結宣言の意味するもの
(続き)しかし何といっても吉備町のドーン計画に流れる最大の特徴は、まちづくりの指導者たちに共通する際立った高い倫理性だろう。区民総会で6人の推進委員がまちづくりリーダーとして選出されたが、その後の象徴的な出来事は、会長となったK氏が当時郡内有数の土建業者であったにもかかわらず、「責任者が同対事業で儲けたとなったらけじめがつかない」として家業を捨ててその任に当たったことだ。同和利権で飯を食うことばかり考えている連中にこんな話を聞かせたらいったいどんな顔をするだろうか。爪の垢でも煎じて飲ませたいほどだ。
リーダー層の高い資質は、まちづくりに参加する地区住民に対してもいわゆる「ゴネ得」を排して事業の透明性と公平性を担保するなによりの保障となった。吉備町では計画の内容がほぼ内定した段階で「事業対象者はその時点の居住者に限る」という現住者主義の原則を徹底的に貫いた。また事業の未契約者の住宅には、他の人の同居を認めないという合意も厳しく追求した。
残念なことではあるが、通常、同和対策事業計画が策定され改良住宅の建設がはじまるといつの間にか地区住民の数が増えるのが相場となっている。ひどい場合には2倍、3倍に膨れ上がることも珍しくない。地区から離れて住んでいる親類縁者や子どもたち家族がいつの間にか呼び寄せられるのだ。部落をなくすための同和事業が逆に部落を肥大させるのである。呼び寄せる目的は改良住宅の入居資格を得ることだ。そして目的を達すれば、一時期入居した後どこかへ再び転出するケースも多い。
問題はその後の改良住宅の行方である。公的賃貸住宅だから入居者が転出すれば当然自治体に返却しなければならない。しかし現実には名義はそのままにして、誰かに「又貸し」したり、入居させる代わりに「権利金」を取ったりするケースも少なくないと聞く。いずれも公共財産の不正使用であり、公金の横領といってもよい立派な社会犯罪だ。にもかかわらずそれが発覚しないのは、自治体が厳正な住宅管理を行っていないからだ。だれがどこに入居しているかを正確に把握することは、公営住宅法に基づく自治体の最も基本的な管理業務のはずだが、それが行われていないところに改良住宅が運動団体や個々の居住者によって私物化されていく根本的な原因がある。
一部の不心得者の行為が地区全体に広がるのはそれほど時間はかからない。大阪市のように改良住宅の管理そのものが運動団体に丸投げされているところでは、厳正な入居者管理などもともと望むべくもないが、形式的には自治体が管理していても実質的には野放しのところも結構多い。格安の家賃であるにもかかわらず10年以上にもわたって100万円単位で滞納している入居者(それも市民の税金で給料をもらっている市職員)が続出している京都市や東大阪市のような自治体もある。驚くべきことは、改良住宅の管理者である市当局がこのような不正行為に対して訴訟ひとつ起こさず、また市職員の場合には給料からの家賃の天引きもしないで長年事態を放置してきたことだ。このような無法状態が長年にわたっていわば「公認」されてきたのである。「払わない方が得だ」といった空気が地区全体に蔓延するのもむべなるかな、というべきだろう。
さらに加えていうと、吉備町のドーン計画の優れた点は、地区の事業が終わってからも「まち全体」のまちづくり計画へと発展していったところにある。例えば有田川の対岸に位置する(一般)集落は橋が近くにないために長年不便を強いられていたが、地区内外の交流をなによりも重視するドーン計画によって幹線道路と橋の建設が実現した。部落中心主義(その裏返しとしての部落排外主義)に陥りがちな同和対策事業の欠陥を見事に克服したこの計画は、町民全体に歓迎され、やがてはまちづくり計画として認知されていったのだ。それは、ドーン計画が「部落の閉じられた計画」ではなく「まち全体に開かれた計画」であったためである。こうしてドーン計画は、地区の改良計画からまち全体のまちづくり計画へ、さらには同和行政そのものへの完全終結へ向かって大きく前進していった。
1997(平成9)年11月16日、「ドーン計画完結2周年町民大会」で、(1)吉備町同和対策施策は本年度で終える、(2)必要のなくなった関連組織は改廃する、(3)同和対策関係町民集会は今回をもって幕引きの集会とする、という特別決議が満場一致で採択され、ドーン計画開始以来28年間にわたって続いてきた同和施策はすべて廃止されることになった。この決議に基づき、隣保館運営審議会、議会同和対策特別委員会、役場内同和対策課題検討委員会・地域改善室(旧同和室)、区長会同和部会が次々と廃止・解散され、最後に残った同和委員会も26年間の歴史的使命を果たして1998(平成10)年度総会をもって解散した。地区住民自らが全町民と一緒になって名実ともに同和行政を完全終結させたのである。
そして、「同和問題を完全解決した吉備町」にふさわしい新しい人権機関が必要だとのその後の意見に対しては、(1)同和委員会の尾を引くような組織にはしない、(2)「人権」を「同和」の看板のすげかえにしない、(3)名称や規約も新しい機関にふさわしいものにするなどの方向づけをした上で、名称を公募し、「フェリーチャ・きび」に決定された。同機関がスタートしたのは、1998(平成10)年11月6日のことである。
私は、かねがね同和対策事業に関しては憲法14条、25条とともに22条の視点が重要だと力説してきた。いうまでもなく、14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」といかなる差別をも禁じ、25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」として生活のミニマムを保障し、そして22条は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」として居住・移転の自由を国民に約束した。つまり同和行政は、部落差別をなくすために(14条)、数々の同和施策を講じて生活改善を図り(25条)、地区住民と一般地区住民の自由な交流を通して(22条)、部落を普通の居住地にしていくための時限的な特別措置だったとの見方である。
しかし結論的にいえば、同和行政は差別の根源を部落の劣悪な生活環境にあるとみなして改良事業に邁進したが、憲法22条の視点を看過することによって「改善された部落」を再生産し、あまつさえ10年間の時限立法の同特法を3度も延長することによって、地区住民の「居住・移転の自由」を封じてきたとさえいえるだろう。この視点からすれば、大阪市・京都市などの「属地属人主義」(部落民でありかつ部落居住者でなければ同和行政の対象にしないという方針)などは、まさに憲法22条に反する悪政として弾劾されなければならないし、またこの方針を既得権として自らの同和利権に結び付けてきた運動団体も厳しい批判を免れない。
吉備町のシンポジウムは静かな雰囲気の中で終わった。その静けさは参加者の揺るぎない確信と展望を象徴するように思われた。吉備町は部落のないごく普通の街に戻ったのである。