6月22日:和歌山県吉備町の「ドーン計画」

  和歌山県有田郡吉備町という人口1万数千人の小さな自治体がある。JR紀勢本線で大阪天王寺駅から特急で約1時間、湯浅駅で降りて数キロ山側に入った静かな農村だ。有田みかんの本場だけあって、周辺のなだらかな山並みも一面みかん畑で覆われている。

  そんなごく普通の小さな自治体が、実は同和行政を終結する上で大変な偉業を成し遂げた町なのである。ご多分にもれず和歌山県でも市町村合併が進められているが、吉備町は来年1月に有田郡の山側の金屋町・清水町と合併して有田川市になる予定だ。その合併を目前にして、教育委員会と人権機関「フェリーチャ・きび」との共催で人権講座「ドーン計画を振り返り、明日を語ろう」が6月13日夜に開催され、私もパネラーの1人として参加した。

  私がわざわざ和歌山まで招かれたのには、それなりの理由がある。昨年夏に京都で開催された部落問題研究所主催の研究集会で、吉備町元助役の井上楠次氏と「フェリーチャ・きび」職員の林ひろみさんに出会ったのがきっかけだ。そのとき私は、京都の同和行政の現状を批判して次のように述べた。(1)かっては部落住民の自立を助けた同和行政が、いまや地区住民の自立を妨げる「同和の罠」に転化している、(2)かっては部落住民に対する差別をなくし、部落解放を掲げた運動団体は、いまや差別を口実にして同和行政にぶら下がる利権団体に堕落している、(3)同和行政漬けの部落住民に対する市民意識は、いまや公金(自分たちの税金)を食い物にする「アウトロー集団」への批判意識と化している、(4)このような市民世論の包囲の中で、現状に批判的な地区住民が地区から続々と転出し、住民が半減あるいは1/3近くになった地区も珍しくなく、地区は地区住民からも棄てられ始めている、(5)このままの状況が続けば、地区は自立できない社会的弱者やアウトロー集団の溜まり場となるほかはない、というものだった。

  私のこの講演を聞いて、地元シンポジウムのパネラーとして招いてくれたのが吉備町の教育委員会と人権機関「フェリーチャ・きび」だ。吉備町は、1969(昭和44)年公布の同和対策特別措置法(同特法)を契機にして「ドーン計画」(夜明けの計画)という住民主体のまちづくり計画を策定し、国のモデル事業として推進する中で、日本ではじめて「同和問題を完全解決した町」となった。その経過は、目下刊行中の『ドーン計画の記録』全4巻(発行、吉備町)に詳しいが、各巻の題名がそのまま同和問題を克服していったプロセスをあらわすものとなっている。第1巻『夜明けをめざして』(1969〜1976)、第2巻『町づくりになったドーン計画』(1977〜1990)、第3巻『完結から幕引きへ』(1991〜1997)、第4巻『幸せな(フェリーチャ)町を』(1998〜2003)である。フェリーチャとは、エスペラント語で「幸せな」「幸せに満ちた」との意味だ。

  「ドーン計画」の基本理念や事業手法は、私たちまちづくりの専門家からみてもきわめて示唆に富む内容が多い。いや学ばなければならない貴重な教訓が数多く含まれている。一言でその本質をいえば、「自立と開かれたまちづくり」とでもいえようか。

  ドーン計画では、まず不良住宅が密集していた部落の中心部をクリアランス(除却)して、全町民の交流施設である「きび会館」を建設した。次に隣接する養豚場を「花の木公園」に変えた。こうして偏見の的になっていたスラムの中心地区は有田川沿いのアメニティ空間へと一挙に変貌した。重要なことは、それが「部落の施設」として再生されなかったことだ。京都や大阪での同和事業で建設された地区施設は、これまで一般地区住民の利用を悉く排除してきた。地区住民だけが特別扱いで独占する施設として建設され管理されてきたのである。これでは「部落の改善」にはなるかも知れないが、「部落の消滅」にはつながらない。「改善された部落」が存続するだけだ。しかし最近では批判が高まり、地区住民の独占利用が崩れる中で、次の手段として「人権のまちづくり」などと称する新たな策動が進行している。部落運動団体幹部がNPO法人をつくり、施設管理を市役所から一手に受託し、永遠に「甘い汁」を吸おうとする体制づくりである。

  ドーン計画が住宅改善の方法として基本的に「持家建設」をめざしたことも大きな特徴だ。当時としては画期的な発想だったといえるだろう。京都や大阪のような大都市の同和事業は、その中心が公的賃貸住宅の改良住宅の建設だった。部落周辺の市街地に余地がなく、地区内に集合住宅(アパート)を建てるしかないという事情もあった。また「持家はプチブル思想を育てる」、「労働者や貧民などプロレタリアートには社会的に供給される公的賃貸住宅こそがふさわしい」といった公的借家イデオロギーの影響も大きかった。

  だが、農村では事情が違う。農村では持家が普通だ。借家住まいというのはほとんどない。また農民は貧民といえどもプロレタリアートではない。まして戦後の農地解放で小なりといえども自作農になった地区住民が意識も行動様式もプチブル(小所有者)的感覚を持つのは当然だ。そんなところに大都市と同じ改良住宅アパートを持ち込んだら、地区住民のニーズにもそぐわないし、誰の目にも「ここは部落だ」と宣言するようなものだ。事実、奈良県や和歌山県の他地区では、低層ではあるものの改良住宅団地が現在も威容(異様)を誇っていて、一目で同和団地だとわかる。

  しかし、吉備町で持家建設をめざしたのはそれだけの理由ではない。地区住民の自立にとって持家建設が果たす重要な役割を見抜いていたからだ。「ドーン計画の記録」は次のように述べている。「どんなに借金して、どんなに苦労しても自分の家を持ちたい、という意欲が地区住民を活気づけました。これまでろくに働く場所もなく、その日くらしで土方や日雇いに頼ってきた区民、とりわけ主婦たちはこれまで内職の斡旋があっても余り長続きしなかったのに、ミカン仕事、縫製工場、病院の掃除婦など目を皿にして働き出しました。ドーン計画以降、同和地区内には遊び人がいなくなりました。自分の家を持ちたい。人が家を建て、家が人を変えたのです」。

  私はこの地区リーダーたちの洞察力が本当にすばらしかったと思う。国や市役所に要求して改良住宅を建てさせる部落解放運動は全国至る所で展開され、また成果も挙げた。しかし各地の改良住宅のその後の姿をみていると、居住者(プロレタリアート?)としての自覚や連帯が育っているとは必ずしもいえない否定的な事例が山積している。改良住宅を「タダ同然で住める安い住宅」と同一視する風潮が地区全体に蔓延していったからだ。乱暴な機器類の使い方をしても修繕はタダで市役所がやってくれる。家賃を滞納しても誰からも文句はいわれない(京都市の改良住宅には10年以上も家賃を滞納している市役所職員が多数いる!)。階段や玄関、共同の庭や駐車場の掃除をしたことがないなど、およそ集合住宅や共同住宅の居住者としての必要最小限のモラルもマナーも形成されないままの改良住宅団地は山ほどあるのである。

  もちろん吉備町においても高齢や経済的な理由で持家を建設できない人もいた。そんな人は改良住宅への入居を選択したが、リーダーたちはアパート形式の改良住宅ではなく、外観が戸建住宅に見えるようにした2戸連棟の低層改良住宅を工夫した。そかも持家と改良住宅を混在させ、農村集落としてのたたずまいをつくり出すことに成功した(続く)。