6月18日:木屋町の風俗店問題・第2話
当面する木屋町のまちづくりの課題について、学生たちと一緒に3人のキーパースンの方からお話を伺った。「木屋町の情緒を守る会」の大島孝治さん、立誠学区自治会連合会長の山本訓三さん、そして「れんこんや」主人の斎藤紀一郎さんである。
話によれば、すでに20年ぐらい以前から木屋町には都心繁華街に特有の問題が多々あったそうだ。バブル景気の過熱化にともない、新しいタイプの風俗店が都心繁華街に続々と進出しつつあったからだ。「キャバクラ」「エステ」「ファッションヘルス」などカタカナの言葉が飛び交い、不法屋台や不法駐車、ゴミ投棄なども次第に悪質化してきた。いずれも暴力団がらみの問題だ。
暴力団のことなら警察にまかせればよい、といった甘い考え方はここではまったく通用しない。地元住民が立ち上がらない限り、警察も本気で対応することにはならないからだ。「木屋町の情緒を守る会」という名前を聞くと、なんだか歴史的な町並みを保全する住民団体のようにも思えるが、その実は、運動目的や活動内容が暴力団対策中心だったのには驚いた。地元住民が警察と一緒に風俗店の客引きの監視、不法屋台・駐車取締りのための街頭パトロール、夜中のゴミ投棄を監視するための徹夜の見張り番などを繰り返す中でやっと沈静化の兆しが見えるようになり、木屋町は暫しの小康状態を迎えることになったという。
だがしかし、私見によれば、木屋町ではすでにそれ以前から激しい地域の構造変化が生じていたように思える。それは都心地域の空洞化すなわち地域住民の流出である。高度経済成長期には都心地域の地価が高騰し、公害問題など環境が悪化したこともあって、安い土地と自然環境を求めて郊外への若い世代の住民流出が相次いだ。とりわけ1980年代以降のバブル期には地価の凄まじい暴騰が住民の流出に一層の拍車をかけた。暴力団まがいの地上げや札束攻勢で土地家屋が次から次ぎへと人手に渡り、転がせなくなった物件は高いテナント料を払ってくれる業種を探すようになった。それが風俗店だったというわけだ。
地域の商店主たちがそこに住んで営業している限り、風俗店のつけ入る隙はない。また例え郊外に移り住んだとしても、いままでの場所で商売を続けている場合も同様だ。自分たちが生活している場所に風俗店を誘致しようという人はいない。しかしいったん住宅や店舗が人手にわたると、この歯止めは一挙にして崩壊する。バブル期の高地価を吸収できるテナントは、サラ金・パチンコ・風俗店・場外馬券売場といったギャンブル産業やセックス産業以外にないからだ。だから余程の強力な都市計画規制でもかけない限り、資本の土地利用法則にしたがって地域環境が激変していくことになる。その絵にかいたような事態が木屋町で発生したのである。
木屋町周辺一帯は「立誠小学校区」に属している。立誠小学校は1869(明治2)年に下京第6番組小学校として開設された日本でも最古の歴史をもつ小学校のひとつだ。立誠小学校区の範囲は、南北が三条通と四条通、東西が鴨川と寺町通に囲まれた京都市切っての都心地域である。学区内には南北幹線道路の河原町通を境にして東側には木屋町通と先斗町通が、西側には新京極通と寺町通が走っている。文字通り「京都都心の核」が立誠小学校区なのである。
そこでどんな変化が起こったのか。その変化を国勢調査の世帯・人口の推移でみてみよう。京都市の元学区別統計によれば、1960(昭和35)年から2000(平成12)年までの40年間に、立誠小学校区の世帯数と人口は1257世帯・5754人から423世帯・1003人までに激減した。実に世帯数の2/3、人口の5/6が失われたのだ。また0〜14歳の子ども数は、およそ1700人前後(1960年の立誠小学校区年齢別人口統計を入手できないので、中京区の0〜14歳人口比率23.0%を参考にして算出)から僅か65人になった。恐るべき減少ぶりだ。しかも世帯・人口はその後も減り続け、2005年5月1日現在では326世帯・794人にまで落ち込んでいる。立誠小学校区の運命はいまや「風前の灯」だといってもよい。
京都市の都市政策・都市計画の致命的な失敗は、都心地域からの住民流出を防ぎ人口減少を防止できなかったことだ。都市の成長拡大を至上目的とするあまり周辺市町村の大合併には熱心だったが、都心地域の空洞化に対してはほとんど危機意識をもたず、対策も講じてこなかった。その結果、20近い小学校を統廃合しなければならないほどの人口減少と児童数の減少が都心地域で進行した。しかし、小学校の統廃合が都心地域の性格や京都の都市構造にどのような影響を与えるかについては、教育委員会も都市計画部局もほとんど考えが及ばなかった。教育委員会と市長部局は日頃から意思の疎通が悪く、小学校の統廃合問題についてもほとんど議論らしい議論が行われなかったことが根本原因だろう。
京都の小学校は地元住民にとっては愛着が深い。町組といわれる住民組織が寄付を集めて校舎を建設し、1世紀にわたって学校運営を支援してきたからだ。小学校は名実ともにコミュニティの核として地域社会を支え、子どもたちを育んできた。だから自分たちの母校がなくなることは地元住民にとっては一大事だったが、議論の大半は小学校を残すか残さないか、残さないとすれば代替措置をどうするかに費やされ、小学校と地域環境のかかわりについての関心は薄かった。行政のタテワリ組織の狭間で問題が矮小化され、ボールが誰の手にも受けとめられずに転がっていったのである。立誠小学校がいまから10年前の1995(平成5)年に廃校されるときも、風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)と学校施設との関係についての議論は、行政側からも住民側からもまったく出なかった。
その挙句の果てが現在の風俗店問題である。風俗営業法は、学校や図書館、児童福祉施設などの周囲200メートルの区域内は風俗店の新規出店を規制している。都心地域で辛うじて風俗店の進出を食いとめていた小学校が廃止され、その跡地利用に何の配慮も対策も取られないことが判明した瞬間から風俗店の怒涛のような進出が始まった。風俗店経営者や暴力団関係者はさぞかし喜んだであろう。「千載一遇」ともいうべき又とないビジネスチャンスが京都市の教育委員会から易々と与えられたからだ。現市長は教育委員会出身であり教育委員長であっただけに、とりわけその責任には大きいものがあろう。
懇談後、学生たちと木屋町一帯を歩いた。彼/彼女らはすでに下調べをしていて、風俗店は木屋町界隈だけで50軒近く、四条通を超えると70〜80軒に達するという。私たちの世代にとっての木屋町・河原町界隈のイメージは、洋書の「丸善」であり、文房具の「壷中堂」であり、ビアホールの「ミュンヘン」であり、老舗の喫茶店の「築地」や「フランソワ」だった。だが、いまや河原町通と木屋町通を結ぶかっての閑静な路地は悉く風俗店に占領されている。昼間からどぎつい電飾のイルミネーションが輝き、蝶ネクタイをした鋭い目つきの呼び込み人たちが道行く人々を威圧している。登録文化財に指定された喫茶店のフランソワなどは、両側を風俗店に挟まれて痛ましい限りだ。まるで暴力団に両脇を抱えられて拉致されようとしている女性の姿そのものではないか。
私たちは発する言葉もなくただ歩いた。このままでは間違いなく京都の都心地域は暴力団とセックス産業に席捲されてしまう。東京でいえば、新宿の歌舞伎町の一大集団が銀座街に殴り込みをかけてきたようなものだ。教育委員会は、今年になってやっと立誠小学校のグランドを統合された高倉小学校のテニスコートとして再利用することを決めたが、「遅きに失する」とはまさにこのことだ。もはや新規出店の余地がほとんど残っていない段階になってからの「アリバイ」的措置では何の意味もない。既存の風俗店を何一つ規制できないで、どうして木屋町を再生させることができるのか。
これらの難題が今年の広原ゼミの課題だ。学生たちの苦闘がこれから始まる。でも学生たちは意気軒昂だ。それからというものは、彼/彼女らは京都府警五条警察署・東山警察署の地域課や生活安全課に飛び込み、京都市景観・まちづくりセンターを訪ね、市役所の都市計画課やプロジェクト推進室などに押しかけて遠慮ない質問を浴びせている。この若さとエネルギーがひょとすると「ドエライ提案」を生み出してくれるかも知れない。後日、その成果を改めて報告したい。