6月13日
「木屋町の風俗店問題」
12日の日曜日、暑い最中をゼミの学生たちと一緒に木屋町に調査に出かけた。ゼミのテーマである「木屋町の再生まちづくり」の一環としての風俗店調査だ。地元の立誠小学校の閉鎖以来、周辺一帯への風俗店のなりふり構わぬ進出で、いま木屋町は高瀬川の埋め立て計画以来の歴史上未曾有の危機に直面しているといってよい。しかし問題はひとり木屋町だけにとどまらない。それは京都市の都心全体の性格を一変させかねない危険性を含む深刻な事態というべきだ。京都のまちづくりを考えるとき、この問題を看過して奇麗事だけを並べることは「木を見て森を見ない」ことと同然だろう。
木屋町は高瀬川とともに発展してきた中心市街地で、南北が三条通と四条通(2.8キロ)、東西が鴨川と河原町通に挟まれた京都切っての都心繁華街である。江戸初期(1613年)に角倉了以によって淀川の中継港・伏見港から二条までの全長10キロ余りの物流幹線水路として開削されたのが高瀬川、その終点(二条の船留まり)近くの両側に形成されたのが木屋町で、読んで字の如く材木・薪・炭などを扱う店が数多く並んでいた。
木屋町はまた日本最初の路面電車が走ったことでも有名だ。平安遷都1100年記念事業(1894年)として岡崎地区に平安神宮の建設、第4回内国勧業博覧会が開催され、大阪からのアクセスとして高瀬川に沿って民営の路面電車が敷設された。その動力源の電気は、琵琶湖疎水の水流を利用したこれも日本最初の蹴上水力発電所から供給された。木屋町通は、名実ともに大阪と京都を結ぶ交通幹線だった。しかし京都市周辺を結ぶ鉄道網が整備されるにつれて次第に物流幹線としての機能が縮小し、京都市の近代化三大事業の一つである主要街路拡幅と電気軌道(市電)の敷設が本格化すると、河原町通を拡幅するか高瀬川を暗渠にして木屋町通を拡幅して市電を通すかという都市計画道路計画が持ち上がった。
これに対して木屋町沿線住民は1920(大正9)年に「高瀬川保存会」を結成し、史蹟名勝として、また運河としても高瀬川をこれまで通り残すべきと主張して、3千名を超える署名を知事に提出したり、千数百名を集める市民決起集会を開催するなど町を挙げて強力な高瀬川暗渠化・木屋町線拡張反対運動を展開する。しかし河原町沿線住民も逆に「木屋町線期成同盟会」を結成して、河原町線拡張反対の1万人を超える署名を内相に提出した。こうした市民の対立を反映して市議会でも都市計画京都地方委員会(都市計画原案を作成する国の機関)でも大もめになるが、結局は1922(大正11)年に河原町線拡張に決着した。高瀬川の水運は1920(大正9)年に廃止されるが、高瀬川は木屋町住民の懸命の努力で守られ、それ以降現在まで大都市都心の貴重な水辺環境として市民に潤いの空間を提供してきたのである(ここまで書いてきて時間切れです。今日明日、和歌山への出張なので続きは16日に掲載します)。