5月30日
(続き)大学教育の中で講義に次いで重要なのはゼミだ。ゼミは小人数教育が原則だから、従来のマスプロ教育ではすべての学生にゼミを必修科目にすることは不可能だった。現在でもゼミが選択科目になっている大学は多い。とりわけ学生数に対して教員数が少ない私学では、ゼミを必修科目にすると学生が溢れてしまうからだ。
でも、私はゼミは講義とならんで大学教育を支える両輪だと思う。龍谷大学法学部では1ゼミ25人程度を限度に1回生から基礎ゼミを始めているが、私は2回生後期からの専門ゼミを担当している。2回生後期から3回生前期の通年ゼミがまず始まり、次いで3回生後期から4回生前期の通年ゼミに続き、4回生後期で卒業研究をまとめる。最初の1年間が終わった段階でゼミを変わる(指導教員を変える)ことは可能だが、それ以降は特別な理由でもない限り卒業まで同じゼミで暮らすことになる。
講義は原則としてすべて選択で、半年13〜14回の講義で終わる(最近は通年講義はまずない)。しかし龍谷大学のゼミは(指導教員を変えなければ)、2年生後期から卒業まで2年間半も継続することになる。これは教員にとっても学生にとっても大変なことだ。もちろん学生たちには「止める自由」はあるが、それは単位放棄につながるだけに相当の決意を必要とする。教員との人間関係がうかくいかないようなことが起こると、ある意味では学生たちの死活問題にもつながるのである。
私は定員に達するまで原則としてゼミ希望者の選抜はしない方針をとってきた。基本的には「どんな学生でも受け入れる」というのが私の考え方だ。いままで定員を超える希望者がなかったこともあるが、これからもその方針は変えるつもりはない。理由は「ゼミは大学での学生の居場所」だと考えているからだ。
理系学部の出身である私にとっては、ゼミは共同生活そのものだった。もともと1学年30人という小人数教育なのでクラスのまとまりはよい。だから4回生時点でのゼミの選択は、学生間の「横のつながり」のためというよりは、大学院生など先輩たちとの「縦のつながり」を意識することの方が強かった。文系学部では自由な感じがする「ゼミを選ぶ」といった表現をしていたようだが、理系学部ではまるで徒弟奉公のような匂いがする「研究室に入る」という実感が強かった。なぜなら、そこには研究室を統括する助手を頂点として多くの大学院生たちがたむろしており、まるで「相撲部屋」(「タコ部屋」ともいった)のような様相を呈していたからである。
研究室での生活は、文字通り24時間の共同生活だった。「朝から晩まで」ではない、「日もすがら(終日)」なのだ。研究室には長椅子があちこちにあっていつも誰かが寝ている。石炭ストーブ(今時の学生には信じられないだろうが)やガスコンロがあって、その周辺にはチキンラーメン、インスタントコーヒー、一升瓶の残骸などが転がっている。何のことはない。スラムや不良住宅地の研究をしているはずの研究室自体がそれに近い環境なのだ。しかし深夜になっても明け方になっても研究室の灯りが消えたことはない。ゼミ生は研究室から講義を受けにいって、終わればまた研究室に帰って来る。下宿代を全部呑んでしまって研究室に寝泊りしている豪傑もいた。
でもそんなスラムのような汚い研究室でも、そこは学生たちの「溜まり場」であり「居場所」だった。学部学生といえども専用の机を与えられ、そこにいけば「自分の城」があった。本に集中しているときや論文を書いているときは誰も邪魔しなかった。研究室にときたま訪れる女性たちもいたことはいたが、若者(それもほとんどが男子学生)たちの汗臭い匂いと独特の雰囲気に気圧されて二度と近づかなかった。
その頃の学生にくらべて最近の学生は可哀想だ(と少なくとも私は思う)。たしかにキャンパスは驚くほどきれいになった。お洒落なコーナーやロビ−もある。でも彼/彼女らの居場所がない。辛うじてクラブや同好会の部室がそれに近い存在だといえるが、それとてもひとりひとりが占有できる空間はない。またすべての学生がクラブに所属できるわけでもない。とすれば、学生たちはいったい大学のどこで自分の居場所を見つければよいのだろうか。
残念ながら、いまの文系学部にはそれを実現できる条件がないことは事実だろう。ひとつひとつのゼミに研究室を確保しようとしたら、それこそ国からの私学助成を飛躍的に増やさない限り不可能だ。「研究室のないゼミ」を学生の居場所にするためには、教員がそれ相応の努力をする以外に方法がないのである。限界があることは百も承知なのだが、ゼミの雰囲気をできるだけ研究室的なものに近づけたいのが私の願いだ。ゼミを時間区切りの単なる演習時間としてではなく、コミュニティの匂いがするようなゼミにしたいのだ。
目下のところ、私のゼミは積極的な学生たちに恵まれていい雰囲気に包まれている。私はゼミ運営に対してはあまり口を出さない。彼/彼女らが楽しいと感じるようなゼミにするためには、学生たち自身がまず気兼ねなく議論する(冗談を言い合う)空気が充満していなくては駄目だと思うからだ。そして知らず知らずの間にゼミの空気に染まっていくような運営が好ましいと考えている。昔でいえば「私塾」のような性格のゼミにしたいと思っているからである。
昨年度のゼミ討論会で優勝の原動力になった4回生たちは、目下、就職活動一色(略して「就活」)で忙殺されている。彼/彼女らが就活でゼミに出てこられない状況が続いているのだ。大学の最終学年を勉強や卒業研究に集中できずに会社訪問に明け暮れしなければならないとは、何と悲しい現実であろうか。こんな惨い仕打ちを学生に押し付けて平気な経済界に対して、大学人はもっと批判をしなければならないと思う。日本の未来を担わなければならない若者が傲慢な企業の人事方針によって心身ともに磨り減っていく様子をみると、企業経営者がいかに短期的な視野しか持っていないかを痛感する。
とはいえ、今年のゼミの主役の3回生たちは元気そのものだ。共同研究のテーマを京都の都心再生に焦点を当て、調査対象地域として最近風俗店の進出で荒廃著しい木屋町通りとファーストフード店の進出もみられる錦通り商店街を設定して精力的な調査を始めている。また学生企画のゼミ見学やゼミコンパも盛んで、何だか「呑んでいるばかりのゼミ」のような誤解を周辺に与えはしないかと心配になる。コンパの参加費を稼ぐためにアルバイトを増やして、その結果講義やゼミに出てこれなくなったら困るからだ。
でもそれほど心配するほどのこともなさそうである。コンパに積極的な学生はゼミ活動にも積極的だという明確な相関関係がみられるからだ。「よく遊び、よく学べ」とは、古今東西に通用する普遍的な法則らしい。