5月29日
5月は大型連休がある楽しい月だ。しかしそれだけに、そこからはみ出したスケジュールが普段の日に殺到する。11日にイギリスから帰国して以来、今日までひたすらスケジュールの消化に専念してきたが、未だ完全に消化し切れていない。備忘録的にざっと振り返ってみると、今更の如くその思いを強くする。
帰国した翌日12日はさっそく講義とゼミの日だった。前期の私の担当科目は「都市政策論」、受講生(学部)は200名ぐらいだろうか。例年5月ぐらいになると出席者が減ってくるのだが、今年はなかなか減りそうにない。同僚の教授たちの意見によれば、どのクラスでも年々出席率が上がってきているそうだ。真面目な学生が増えてきているのは喜ばしい限りだ。だが、出席率が上がっているのは果たしてそれだけだろうか。
私たちが学生の頃は「休講」のことを「モウケ」と呼んでいた。「儲かった」との意味だ。勉強するために大学に来ているのに休講を喜ぶなんて不遜極まりないが、そんな言動がなんとなく許容される雰囲気が当時の大学にはあった。休講だからといってまるきり遊んでいた学生は稀で、多くの学生は図書館に行ったり、喫茶店で議論をしていたりしていたからだろう。
それに比べて最近の学生たちはアルバイトで本当に忙しい。授業料が高いので(それに遊ぶための金も結構要るので)家からの仕送りだけではとても生活していけないからだ。コンビニやスーパー、宅配や運送、ファミレスやカフェなど、とにかく彼/彼女らはあらゆる職場で働いている。アルバイトの隙間を縫って大学に来ているといっても過言ではないぐらいだ。そんなハードな毎日だからこそ、せめて講義ぐらいは出ておきたい、出なければ不安だという心境にあるのではないか。講義に出なくてもそれをカバーするだけの精神的なゆとりや時間的余裕がないからではないか。
そうなると、大学生活の中で講義がきわめて重要な役割を果たすことになる。学生と大学を結ぶ「唯一の絆」といってもよいかも知れない。そこで学生たちに学ぶことの面白さや考えることの楽しさを伝えることができなければ、大学に来た意味を理解しないまま卒業していくなんてことになりかねない。かっての大教授のように、教室に行く途中の廊下で「今日はなにを話そうか」と歩きながら考えるような芸当はもはや許されなくなった。事前にシラバスをつくり、学生がどうすれば講義に興味を持ってくれるかとさまざまな視聴覚ツールを駆使するなど、すべての先生が苦心に苦心を重ねている。
私もこれまでいろんな方法を試みてきた。でも、最近は「古典落語」を演ずるようなシンプルな感じでやることが多くなった。簡単なレジュメを用意するだけで視聴覚機器も使わない、板書もあまりしない、専ら話すという何の変哲もないやり方だ。こんなことで200人の学生たちを90分間もひきつけることができるのだろうか、誰しもがそう思うだろう。しかし、講義の原点は教師が学生に向かって直接話しかけることにある。学生は教師の顔をみて話を聞き、その内容を理解しようとする。教師は学生たちの表情を見ながら、自分の話がどれだけ彼/彼女らの関心を引きつけ理解を深めているかを判断してその場で次のシナリオの展開を考える。これが私の講義というものに対する考え方だ。
もう少し具体的に説明しよう。まず、用意するレジュメは半紙の半面に入る程度の簡単なものだ(残りの半面の余白はメモ用である)。1回1テーマだからあまり沢山のことは書かない。90分で説明できるストーリーのあらすじが書いてあるシナリオだと思えばよい。大学院の講義だと、対象はごく小人数の大学院生だから細かいデータや引用文献などの紹介も必要だろうが、学部入門編の講義では話の展開の仕方とりわけ講義の論理構成が重要だ(と私は考えている)。例えば、都市政策の中でも大きな比重を占める(近代)都市計画はなぜ生まれたのかといったテーマでは、産業革命→機械制大工業の出現→工場と労働者の都市集中→公害問題・住宅問題など都市問題の発生→工場法・公衆衛生法・建築基準などによる物的環境規制の導入→住宅・都市計画法への発展といったアウトラインを述べることにしているが、問題は学生たちがそんなストーリーにどれだけ関心を示してくれるかだ。原理原則だけを喋っていたのでは誰も振り向いてもくれない。
そこで多くの場合は視聴覚ツールの登場となるのだが、それが果たして効果があるかといえば必ずしもそうとはいえない。私自身もこれまでいろんな映像資料を使ってやってみたが、気がついたことは学生たちが画面を「見ているだけで考えていない」ことだった(もっと悪いのは教室を暗くするとすぐに寝てしまうことだ)。ちょうどそれはテレビとラジオの関係に似ている。確かにテレビの影響力は強力だが、映像シーンが次から次ぎへと展開していくのに目を奪われて思考が追いついていかないことがある。何も考えないでテレビを見るのが習慣になっている場合も多い。これに対して耳から聴くラジオは、頭脳の論理回路を通さないと情報を理解できない場合が多いのではないか。
そんなことで、あるときから私は映像資料を使わないことに踏み切った。その代わりできるだけ具体的な事例をストーリーに関連させて話すことにした。公害問題を例にとれば、真昼でも手探りで街頭を歩かなければならなかった「煙の都」といわれた昔のロンドンの様子を当時の保健監察官の報告書を素材にしながら話すとか、つい最近の経験した話として、2008年のオリンピックを控えた北京で自動車交通の激増が朝夕の物凄い交通渋滞と大気汚染を引き起こしている状況を紹介するとか、日本のトップ企業の三菱商事と三菱マテリアル(旧三菱金属工業)が自社工場跡地にマンションを建てて売り出した際、敷地が工場廃液で汚染されているのを知りながらその事実を隠蔽していたとかである。要するに、私が本質的だと考えるテーマとストーリーの展開を歴史的かつ現代的な具体例で裏付け、さらにそれが地域や国土を超えた世界的な現象であることを外国の事例を紹介しながら、彼/彼女らの知的関心と想像力をかきたてたいと思うのだ。
それがどれだけ成功しているかはわからない。ひょっとすると、独り善がりの世界に埋没しているだけかも知れない。でも、教室の反応はそんなに悪くない。確かに講義の最初はざわついている。私語を止めることと帽子を脱ぐことだけを冒頭に注意して講義をスタートするが、水を打ったように教室が静かになることなんて滅多にない。しかしそのうちに話に興が乗ってくると、だんだん学生たちの視線が私に集まってくるようになる。ときどきメモもとってほしいのだが、そんなことよりも彼/彼女らの顔が真っ直ぐに私を見つめていることの方が大切だ。うまくいくと私語がだんだん少なくなり、やがては静寂が教室を支配するようになる。
私語を止めさせることはできない。同僚の教授たちの中には「私語は学生たちの呼吸のようなものだ。止めさせると死んでしまうよ」なんて言うのがいるが、そこまで言わなくとも90分間の講義に集中できる(耐えられる)学生なんてほとんどお目にかかれない。だから、私語の注意ばかりしていると肝心の講義が中断してしまう。そうすると関心が拡散して私語が一段と大きくなるという悪循環に陥る。大切なのは「私語に打ち勝つだけの魅力ある講義」を私たち教員ができるか、ということだ。最近の教育重視の風潮を反映してどこの大学でも授業技術の研究が盛んだが、それがツール(手法・手段)だけの改良に傾くと講義の本質が失われてしまう。以って誡とすべきだ(続く)。