5月14日
11日朝の午前9時、イギリスのマンチエスターからオランダのアムステルダムを経由して関西空港に戻ってきた。実に18時間の長旅だ。3日午前10時に同じオランダ航空(KLM)で関西空港を出発してから丸11日間、今回は比較的長い調査旅行だった。調査団メンバーは、文部科学省の高度重点共同研究事業を受けての龍谷大学一行で総勢11名、法学部・経済学部・国際文化学部の混成チームだ。団長は富野輝一郎法学部教授、学内外の共同研究チームなので、同志社大学政策研究大学院長の新川教授も参加された。
今回の調査の特徴は、調査対象をイギリスのリバプール市一本に絞ったことだ。リバプール市は一般にはビートルズの生れ故郷として知られているが、歴史的には世界の産業革命をリードした造船業と交易を中心とする国際港湾都市として名高い。また、ヨーロッパ各国から新世界アメリカへ大量の移民を送り出した港であり、アフリカからアメリカへの黒人奴隷貿易を一手に掌握した中継港としても知られている。リバプール港には18世紀から19世紀にかけて港湾施設、造船工場、倉庫、石炭貯蔵地などが集積し、イギリスの一大産業拠点として発展した。同じく産業革命の旗手だったマンチエスター市との間で、1830年9月に世界で初めて鉄道営業を開始したことでも有名だ。人口も1801年当時は僅か7万8千人にすぎなかったが、1901年には68万5千人へと100年間で10倍近く急成長した。いずれにしても、リバプール市はマンチエスター市ともども頭の先から爪の先まで産業革命の申し子であり、資本主義経済の発展とともに急成長した工業都市・近代都市の典型そのものなのだ。
ところが第2次大戦後、「イギリス病」とまでいわれた世界市場におけるイギリス工業の全般的後退のもとで、19世紀には世界を支配したこれら伝統的工業都市がその機能を悉く外国に奪われるという事態が生じた。とりわけリバプール市においては、水運航路の変更やコンテナ化にともなう港湾施設の遊休化とウオーターフロントの重厚長大型産業の衰退によって広大な港湾地域が空洞化し、かって隆盛を極めた産業基地は見渡す限りの放棄地・荒廃地へと一変した。一方これと並行して市街地からも郊外への人口流出が相次ぎ、都心商業地域や中心市街地の空洞化が急速に進行した。いわゆる「インナーシティ問題」といわれる地域経済・地域社会・地域環境の三位一体の衰退と荒廃化が、ここリバプール市において急速に深刻化したのである。その結果、19世紀から20世紀初頭にかけて10倍近く増加した人口は、20世紀後半には一時40万人を切る水準にまで落ち込み、2003年現在においてもまだ44万2千人までしか回復していない。
なぜこのような大規模かつ急速な伝統的工業都市の衰退が生じたのであろうか。世界市場やEU経済とイギリスとの関連からいえば、イギリス経済の中枢を形成する銀行・保険などの国際金融資本が国内産業の育成を犠牲にして海外投資に偏した経済政策を進めた結果、国内製造業や技術開発への投資や人材供給が極端に枯渇し、世界の技術開発競争において決定的な遅れをとったというのが定説である。これはイギリス経済を交互に担ってきた戦後の保守党・労働党(右派)政府のいずれにも共通する体質であり、国際金融資本が支配するイギリス帝国の「驕り」あるいは「負の遺産」とでもいうべきものだろう。
しかし、リバプール市の衰退原因はそれだけにあったのではない。リバプール市にはイギリスの政治状況をめぐるもうひとつの特徴的な衰退要因があった。それは都市開発や自治体運営をめぐる中央政府と地方政府・地方自治体との間の硬直的かつ深刻な対立の継続である。リバプール市は労働党が長年にわたって支配的な位置を占めてきた地方自治体であるが、とりわけ「ミリタント・レイバー」(戦闘的労働党)とか、「ハードレフト」(労働党強硬派)とか呼ばれる左派勢力が強く、戦後長期にわたって中央政府の強固な対抗勢力としての政治姿勢を保ち続けてきた。その主力はいうまでもなく労働組合であり、中でも重厚長大部門や公共部門の労働組合が自治体行政への強い発言権を有していた。その結果、経済産業政策においては労働集約型の伝統的産業に対する保護主義的スタンスが強く、成長分野のハイテク産業・サービス産業・レジャー産業などに対しては否定的な態度をとる傾向が(ときには「敵視」する傾向も)強かった。また新しい産業分野の開発・振興や企業誘致にも消極的で、市独自の資金面や都市計画面での見るべき施策がなかった。一方、住宅政策の面では公共賃貸住宅以外の政策展開に関しては著しくメニューが少なく、市民が持家を取得しようとすれば郊外に出る他はなかった。こうしてリバプール市とりわけインナーシティ(既成市街地)は、産業と住宅の空洞化によって見る見るうちに衰退の淵に沈んでいったのである。
このような1960年代以降の衰退状況の第1の転機は、1981年のサッチャー政権による政府直轄の「都市開発公社」の設置と「エンタプライズ・ゾーン」の指定だった。リバプールの港湾地域は、ロンドンのドックランド港湾地域と並んで真っ先に政府直轄の都市開発地区として指定された。エンタプライズ・ゾーンとは、10年間の特例措置として開発地区を指定し、開発規制の緩和により開発の迅速化を図り、各種の減免税措置を組み合わせて集中的に都市開発を推進しようとする「開発特区制度」だ。また都市開発公社とは、国の設立する機関が特定の地区を直轄地として管轄下に置き、地方自治体から当該地区内の公共用地を無償で譲り受け、その区域内での本来の地方自治体の権限である計画・開発許可を含め、国が開発整備に関する一切の作業を迅速かつ強力に推進する「政府直轄組織」のことだ。サッチャー政権は労働党左派自治体の牙城であるリバプール市の喉元に政府直轄組織を送り込むことによって、保守党政府の政治的影響力の拡大を一気に図ろうとしたのである。
だが、結果はあまり芳しいものではなかった。リバプール市は都市開発公社への役員派遣を拒否することによってその後も依然として非協力の姿勢を崩さなかった。公社は放棄建物の除却、荒廃地区の整備、インフラ整備などによって民間企業の進出を呼び込もうとしたが、公社とリバプール市との間の強い不協和音に不安を感じて進出を躊躇する企業が多かった。その結果、公社の開発投資額を1とすると民間投資額は1.2に留まり、公社開発の「呼び水効果」は他地域にくらべて最低レベルに低迷した。また公社の開発手法は、周辺コミュニティを含めて衰退地域全体の社会的経済的再生を図るというよりは、「不動産に基づく都市再生」といわれるように、開発地区の不動産市場を活性化させて開発利益(売却利益)が出るようにすれば、その後は全てがうまくいくとの楽観主義に基づくものだった。だから、アルバートドックのように歴史的建造物(倉庫)を修復してレストランや「ビートルズ・ストーリー」といわれるミュージアムを誘致し、観光名所に仕立てた一部の成功事例はあるが、多くの遊休地は現在もなお放置されたままなのである。
このように、旧来の政策転換なくしてこれからの衰退地域再生の可能性はあり得ないことが明らかになった。それは中央政府にとってもリバプール市にとっても、いまや否定し難い命題となったのである(続く)。