4月25日
昨夜遅く神戸の震災復興シンポジウムからの帰途に通過したJR尼崎駅近くで、今朝方死者50人、負傷者325人(25日22時現在)に達するという快速電車の脱線大事故が発生した。昨日のシンポジウム会場には白井文尼崎市長も来ておられたので、京都市長選に応援にきていただいたお礼を兼ねての挨拶を交わした矢先の出来事だ。犠牲者の方々の冥福を心からお祈りすると同時に、いまだに救出されていない乗客の生存を祈るばかりだ。この件についてはいずれ事故の全容が明らかになった段階で改めて触れることにして、今回は22日から24日までの3日間の震災復興関連のイベントについて報告したい。
歴史というものは本当に恐ろしいものだ。偶然の重なりが必然をもたらすということを今回ほど痛感したことはない。実は、新潟と神戸で連続して開催された今回の震災復興イベントは互いにまったく独立して企画されたものなのである。にもかかわらず、それが時期的にも内容的にも恐ろしいほどの結びつきで繋がったのだから不思議という他はない。
新潟県の小千谷市と長岡市で22日から23日にわたって開催された震災復興シンポジウムは、昨年10月23日の中越大地震からちょうど半年目だということで地元自治体や支援団体が企画したものだ。それに対して24日の神戸のシンポジウムは、NGO兵庫県震災復興研究センターが阪神・淡路大震災10周年の記念出版を契機にして開催したものだが、24日という日はたまたまこの日が講演を依頼した片山鳥取県知事の日程上の都合で決められたもので、両シンポジウムが重なったのは偶然以外の何物でもない。ところが、全く無関係に企画された両者の間に幾重もの太い糸が通じていた。ひとつは震災復興研究センターともメンバーが一部重なっている阪神・淡路まちづくり支援機構の存在、もうひとつは震災復興研究センターが旧山古志村の長島元村長をパネリストとして招いたことである。
阪神・淡路まちづくり支援機構は、弁護士・建築士などの専門家職能団体と研究者が組織するまちづくり支援NPOであるが、全国的にも同様の組織の必要性を呼びかけており、中越地震発生後は地元の研究者や弁護士とも意見交換を行って共同の取り組みを重ねてきた。そしてその第1段階での集約的なイベントが今回の震災復興シンポジウムだった。したがって支援機構からも多くの研究者、弁護士、まちづくりコンサルタントが新潟のイベントに参加したのだが、そこで感じたことは、阪神・淡路大震災の教訓が少なからず中越地震の震災復興方針に反映されていることだった。要するに、兵庫県や神戸市に代表されるようなかっての「ゼネコン型復興計画」はもはや影も形もないということなのである。中越地震が地方都市と中山間地域にわたる広域的な震災だということもあるが、被災者の生活再建よりも震災を千載一遇の機会として都市計画事業・都市再開発事業を強行しようとするような姿勢はもはやどこでも通用しなくなったというべきだろう。経済産業省出身の新潟県知事や旧建設省出身の長岡市長が「被災者の生活再建が大事」と異口同音に発言したことに、私は時代の変化と歴史の進歩を確信した。阪神・淡路大震災以来、被災者の生活再建を求める被災者・被災地の血の滲むような運動が、いま阪神・淡路から遠く離れた新潟でいま結実しつつあることを心から実感したのである。
新潟と神戸のイベントを結ぶもうひとつの糸は、4月1日の合併で消滅した旧山古志村の長島元村長の存在である。実は、神戸のイベントに長島元村長がパネリストとして参加することを事前に知って私は驚いた。なぜかといえば、神戸のシンポジウムに長島氏が参加するはずがないと思い込んでいたからだ。長島氏の現職は「長岡市復興監理監」で震災復興の最高責任者である。その人が中越地震から半年を経た時点での地元での重要なイベントで出番がないことなど考えられないではないか。しかし、現実には長島氏は神戸へやってきた。
この不思議な現象を解く鍵は長島氏の置かれている微妙な立場にあるのではないか、と私は考えている。政府関係者の言によると、合併直前に被災した山古志村は「全村移転」という非常に強い政府の圧力のもとに置かれていたという。長岡市には宅地開発公団が開発した長岡ニュータウンがあり、広大な宅地が売れ残っている。そこに全村住民を移転させて名実ともに長岡市民として定着させ、山古志村の復旧は放棄するという方針である。しかし、長島村長は「全員が村へ帰る」という方針を堅持し、またマスメディアが山古志村に焦点を当てるかたちで復興キャンペーンを張る中で、山古志村の復興のあり方は日本の中山間地域の行方を左右するシンボル的な位置付けを獲得していったのである。
おそらくこの段階で、政府と新潟県・長岡市との間で山古志村の復興方針に関する政策転換が行われたのではないか。もし山古志村住民の意思を無視して全村移転が強行されるような復興計画が決定されるとしたら、それは神戸市の焼け跡区画整理の都市計画決定以上に日本中からの批判を浴びることになると判断したのであろう。そうでなくても小泉内閣の構造改革は「地方切り捨て」との悪評が高い。ここで合併を梃子にしての全村移転を打ち出せば、市町村合併がすなわち中山間地域の切り捨て政策に他ならないことが誰の目にも明らかになる。だから、山古志村は元へ返そうと考えたに違いない。
新潟県や長岡市の震災復興部局と話をして感じることは、「山古志村をトップランナーにして復興しよう」という姿勢が最近は意識的に強く出されるようになったということである。県や市も残りの中山間地域の復興を実施しようとすれば、山古志村を先進事例にして他の市町村にも適用する方が得策だと判断したのであろう。そのためには長島氏に広告塔として大いに働いてもらった方がよい、全国的に活動してもらう方がよいと考えているのである。
もちろんかくいうことは、長島氏をロボット扱いすることではない。神戸のシンポジウムでの長島氏の発言は、その真摯な人柄を余すところなく伝えるものだった。氏の旧村民を思う気持と復興に懸ける情熱は参加者の心を強く捉えていた。そして私がなによりも嬉しかったのは、長島氏が明晰な行政哲学と政策理念を持つ片山知事の鳥取県西部地震の復興政策についてじかに話を聞き、ともにパネリストとして意見を交換する機会を持ったことだ。いつも思うことだが、片山氏が小泉首相に代わって日本を担ってくれたらどれほど素晴らしい国づくりができるかということだ。長島氏がこれから遭遇するさまざまな困難を乗り越えていく上で、今回の片山知事との出会いが大きな糧になることを祈らずにはいられない。
書きたいことは山ほどある。それほど情報量の多い(そして疲労感の濃い)3日間だった。しかし新潟と神戸のシンポジウムを掛け持ちしたのは支援機構の津久井弁護士と私の2人だけである。多くの参加者はこれからどちらかの印象を繰り返し語るだろうが、しかし2つのイベントを結ぶ関係性を語れるのは私たち2人だけしかいない。若手の「期待の星」である津久井氏が今後どんな比較論を述べるのか。それを楽しみにしながら、私はまず取りあえずの前座を務めたいと思う。