3月28日

  時ならぬ突風が吹き荒れ、日本海地方に季節はずれの積雪(大雪)予報が伝えられる中で、3月25日から26日にかけて北陸本線の富山を経由して飛騨の高山に行ってきた。「春休み中の骨休め」といいたいところだが、実は学会シンポジウムへの出席のためである。

  コミュニティ政策学会という生まれたての小さな学会がある。3年前にコミュニティに関心を持つ各分野の研究者が中心になり、これに自治体関係者やNPOメンバーが加わって発足した。私も役員のひとりである。研究者の他に自治体の首長やNPOメンバーが比較的多数参加しているのには訳がある。それは、最近の市町村合併にともないコミュニティが俄然注目されるようになってきたからだ。有り体に言えば、市町村合併は中心市に編入される多くの周辺町村から自治体としての機能を奪う。役場がなくなり、保育所や小学校が統合され、保健所や福祉施設も広域化する。過疎地域を辛うじて支えてきた最後の拠点が消滅してしまうわけだ。砂漠地帯でいえば、命の水を補給する「オアシス」が消えてしまうのと同じことを意味する。

  しかし、人間は住みなれた地域からそう簡単に離れるわけにはいかない。長年かけて形成されてきたコミュニティ・地域共同体がそこにあり、生活を支える仕事や人間関係のネットワークが張り巡らされている以上、そこを離れては生きていけないからだ。あの歴史的な大津波で住民の大半を失ったインドネシア・アチェ州の漁村においてでさえ、海岸から遠く離れた地域に安全な村を建設するという政府や州の復興計画になかなか同意しないのはそのためなのである。

  だから、合併を遮二無二推進しようとする政府・総務省はさしあたりコミュニティを重視せざるを得ない。コミュニティなくしては合併後の周辺町村を支えていける枠組(社会的インフラ)がないからだ。彼らがことあるごとに「コミュニティ」の存在を吹聴し、地域共同体による「相互扶助・共助」を強調するのはそのためである。国民の生存・生活に不可欠なナショナルミニマムの行政サービスを保障する基礎自治体のリストラを一方で強行しておきながら、その一時的な「穴埋め」や「代替措置」をコミュニティを利用して当面なんとか乗り切ろうとする。こんな矛盾に満ちた場当たり的対応を「コミュニティ政策」として展開しようとしているところに、いまコミュニティが注目される政治的背景があるのである。

  もちろん学会は政府の御用機関でも審議会でもないから、そのための研究をすることが設立目的ではない。むしろそのようなコミュニティ政策の展開によって引き起こされる地域社会の矛盾を解明して自治体行政の役割を再評価し、地域の持続的発展を図るための理論と処方箋を提起しようと考えている人が大半である。しかしそのためには、まず現状を知らなければならない。また過疎地域での地域社会や自治体の生き残りのために、真面目に市町村合併を考えている首長や自治体関係者の意見をきくことも重要だ。そんな趣旨で企画されたのがこのシンポジウムだった。

  シンポジウムの内容は多岐にわたるので明日改めて書くことにして、今日は「副産物」ともいうべきもうひとつの体験について書きたい。京都から高山に行くには、新幹線で名古屋まで行って高山本線を通る特急「ワイドビューひだ」を利用するのが一番はやい。この特急は名古屋と富山を結んでいるのだが、昨年10月20日の飛騨地方を襲った台風23号災害で高山から少し北の古川駅から富山側の猪谷駅までの区間が現在も不通になっている。しかし代行バスが運行していることがわかったので、災害現場の見学も兼ねて富山回りで行ってみようと思い立った。高山には午前中の学会理事会に間に合うように到着しなければならない。そこで2日がかりの行程を組んで出かけたのである(このあたりの私の発想と行動様式が「物好き」だといわれる所以であることは自分でも重々承知しているのだが)。

  前日に金沢で宿泊して午前6時48分発の特急で富山駅へ、そこで高山本線の鈍行に乗り換えて猪谷駅へ到着したのが午前8時20分である。すでに富山県に入った頃から雪が本降りになり、積雪は平野部で10センチ程度になっていたが、猪谷駅に着く頃には数十センチに達していた。代行バスの発車まで30分程度の時間があるので近くの神通川まで歩いていって川岸を見たらいたるところで護岸が削られているではないか。護岸が崩落してその上の住宅が完全に無人化している箇所もある。通りすがりの人に尋ねたら、水位があっという間に橋桁すれすれのところまで上がってきてこのような惨状になったのだという。高山本線が神通川と並行して走っているので、護岸の崩落とともに軌道敷が水没したり、鉄橋が流されて鉄道が寸断されてしまったのだ。

  だが、代行バスからの光景はもっと凄まじかった。バスの走っている国道360号線は神通川や高山本線と並行しているので、道路そのものが同様の被害を受けていたのである。それに目下拡幅工事が進んではいるものの、360号線は「国道」とは名ばかりで元々は山肌を縫う1車線程度の山道で対向車の離合もままならない程度の道だ。だから除雪しているとはいえ、1メートルを超える山中の積雪の中をノロノロと走るのだから背筋が寒くなる。しかも次の瞬間には神通川の川岸まで下りて、所々で道路と橋が流されているので仮設の道路や架橋を渡って行くのである。

  この光景を見て、ベトナム戦争の北爆中止のパリ協定が締結された直後に若手建築家4人でハノイに戦災復興支援のコンサルティングに行ったときのことを思い出した。ベトナム建築家協会の要請で日本の戦災復興の経験をきかせてほしいというのである。そのときのハノイ空港から市内に向かう国道1号線沿いの光景はまさに地獄そのものだった。周辺一面に月面クレーターのような大きな空爆跡の穴があいており、川には橋という橋はすべて破壊され尽くしていた。僅かに船を並べて上に鉄板を張った仮設の橋が架けられていただけだ。川の傍の造船所では鋼鉄製の船が爆撃の衝撃で船底を天に向けてひっくり返っていた。それほどの激しい空爆だったのである。

  話を戻そう。深刻なのは高山本線のこの不通区間の復旧がきわめて困難視されていることだ。復旧費用は百億円とも数百億円ともいわれ、これを民営化されたJRがそう簡単に着工するとは思われない。まして赤字路線だとすれば、なおさらのことだ。すでに前例がある。福井から九頭竜湖までの越美北線(九頭竜線)の場合である。2004年7月の豪雨災害のため、福井近郊の一乗谷駅から美山駅までが不通になり、代行バスは運行されているもののその後いっこうに復旧の兆しがない。JR内部ではすでに廃線を決定しているものの、沿線住民が諦めるまで時間稼ぎをしているだけだとの情報もある。越美北線の沿線には歴史的街並みと名水で知られた大野市があるが、鉄道が不通になってから以降は観光客の激減に見まわれているという。

  高山本線の沿線の人たちが感動を込めて異口同音に語るのは、1985年末から翌年の3月頃まで続いた「昭和55年・56年豪雪」の体験である。この豪雪は北陸地方一円が閉じ込められた1963年の「昭和38年豪雪」(38豪雪)に勝るとも劣らない規模の大雪だったが、そのとき道路という道路は寸断されたにもかかわらず鉄道は微動だにせず正確な運行を維持したのだという。それほど沿線住民の信頼が厚く、掛け替えのないライフライン・生命線として機能しているこの鉄道がこのまま廃線になったらどうなるのか。こんな想いを抱きながら金沢から5時間近くかかって高山市役所の会議室に滑りこんだときは、すでに理事会の開催時刻から大幅に超過していた(続く)。