2月18日
昨日は京都議定書の発効が華々しく祝福された1日だった。世界の主要国(アメリカを除く)では盛大なセレモニーが開催され、地元の京都でも環境系市民団体はもとより各界挙げての歓迎行事が相次いだ。アメリカの一方的離脱によって議定書の存在そのものが一時は破綻の危機に直面していただけに、今回の発効までに漕ぎ着けた世界各国の関係者の努力を心から称えたい。
とはいえ、マスメディアの「歓迎祝賀ムード」一色の報道ぶりに少し抵抗感を覚えるのは、どうやら私だけではなさそうだ。最近、京都のある環境系NGOのメンバーと話していたら、京都では「とにかく京都議定書をスタートさせるのが先決」との空気が圧倒的に支配していて、京都府・京都市と環境NGO・NPOとの(緊張なき)蜜月関係が急速に進んでいるのだという。京都議定書の実現のためには、市民・企業・行政が一体となって取り組まなければならないのだから当然だともいえるが、それがひいては環境NGO・NPOの自立性を失わせ、京都府・京都市の環境行政の下請組織になっていく道にも通じているのだから、事態はそれほど単純ではない。
問題の所在を考えるには、多数の学識経験者や専門家が参加する各種の行政審議会・委員会の現状が参考になるだろう。審議会・委員会なるものの本来の役割は、豊かな学識と専門的知見に基づき「行政の外から」政策的助言を与えることにあるはずだが、現実は、国・地方自治体を問わず行政当局の許容範囲内で政策課題をまとめる「内部作業チーム」として利用されている場合がほとんどだからだ。
私の実体験からすると、この種の審議会・委員会に参加する研究者・専門家にはおよそ次の3つのタイプがある。第1のタイプは「限定専門家型」だ。諮問事項の目的趣旨や審議テーマ全体に関する発言は極力避け、自分の狭い専門分野に限定してしか意見を述べないというタコツボ型の人間だ(理科系に多い)。審議の全体の流れを把握して総合的に発言するようなことは、「専門の域を超える」と考えるような狭い了見の専門家である。しかし、このタイプの研究者は実は役人にとっては最も利用価値のある専門家なのだ。総合的な政策判断は実質的に審議会事務局の役人が独占し、個々の部品的知識を専門家に求めるだけでよいのだからこれほど使い勝手のいい人間はいない。でも審議会メンバーの大半(7〜8割)はこのタイプに属する専門家ではないか。
第2のタイプは「コーディネーター型」だ。このタイプの研究者・専門家は少数だが審議会の常連メンバーが多い。というよりは、当局にコーディネーターとしての能力を見込まれて議論のまとめ役として残された(選りすぐられた)のが、このタイプの専門家なのである。議論の流れを素早く読み、当局の意向に沿ってどんな方向へ結論を持っていくかを考える「落しどころ」を的確に判断できる人物である。政治的センスに富み、役人とも気脈を通じ、弁舌にも長けている。小委員会や調査委員会の責任者を任され、最終的には会長・委員長に起用されていく当局が最も珍重する専門家だ。だが実質は、これは「専門家の仮面を被った当局代理人」だといってよい。
ちなみに国や主要自治体の審議会要職はこのタイプの研究者・専門家で独占されている。例えば神戸市では、審議会の兼職制限規定ができるまで17もの審議会メンバー(会長も複数審議会で兼職)を兼ねている神戸大学教授が複数名存在した。彼らは当時「神戸大学にいる時間よりも神戸市役所にいる時間の方がはるかに長い」といわれていたものだ。京都府・京都市の場合はそれほどでもなさそうだが、それでも結構それに近い人間もいるようだと聞く。公式の審議会は兼職数が制限されているので多くの非公式の委員会・研究会の常連メンバーとなり、役所への「出ずっ張り」状態になって京都府政・京都市政に忠勤を励んでいるというわけだ。しかしもう先がない名誉教授クラスならともかく、若手教授・助教授クラスがここまでの「審議会漬け状態」にはまると、真面目な研究者としての資質と能力を両方とも失っていく場合が多いので要注意である。「気がついたときは大学にも学会にも戻れなくなっていた」なんて言われないように自戒することが大切だ。
第3のタイプは「是々非々型」だ。研究者としても見識があり、当局に対しても一家言をもっているような市民的センスのある専門家が審議会メンバーになる場合である。審議会メンバーになったからといって自説を曲げたりはしない、批判的な眼を失なったりはしない、言うべきことはいう、といった稀有の資質が当該専門家に求められる。通常、このタイプの審議会メンバーに出会うことはまずない。しかし、行政課題が住民運動や市民運動を通して「社会イッシュー」として顕在化したとき、またその問題解決と妥協のためには反対派専門家を取り込んで審議会を構成し、運動の沈静化と世論形成を図る必要性が当局側に生じたときは、稀にこのタイプの研究者・専門家が登場する場面がある。
私事にわたって恐縮だが、私が8年間(1971〜78年)にわたって「京都の市電をまもる会」の事務局長として闘った市民運動の終盤は、京都市交通審議会への私の参加で幕を明けた。交通局が私を審議会メンバーとして取りこみ、「市電全廃止むなし」の答申を審議会の意見として出させようと目論んだのである。市電をまもる会の中では、私の審議会参加をめぐって意見が真二つに割れた。しかし、私は審議会で会の主張を述べるため参加の道を選んだ。審議会の結論は賛否両論の併記となったが、そのとき都市経済学専門のある京大教授が「自分は市電外周線だけでも残せないかと提案したが、会の代表は市電全廃反対にこだわりその目を潰した」と非難した。彼にはこの審議会の開催目的が市電存続の可能性を探るものでないことをそもそも政治的に理解できていなかったのである。
話を京都議定書に戻そう。私は多くの環境専門家やNGO・NPOが京都府・京都市と連携して京都議定書の実現に取り組むことには何の異論もない。またその代表が京都府・京都市の環境審議会に参加して市民運動団体としての主張を大いに述べてもらいたいと思う。しかしその一方、マスコミには華やかに登場するものの、京都府・京都市が排ガスを増やすだけの市内高速自動車道路建設に巨額の税金を投入している事態に対してただ傍観しているだけだとしたら、また何の異議申立てもできないようだとしたら、それはやはり行政の掌中で弄ばれているだけの「外郭補助金団体」の存在でしかない。
すでにその兆候はあらわれている。最近、京都で最も優秀で活動的な環境NGOのメンバーのひとりが、京都市の環境行政の限界を指摘し批判しただけで活動ができない状況に追い込まれた。そしてその事態を目の当たりにながら、多くの環境団体は彼を守ることもできず、また京都市に対する抗議運動ひとつ起こすこともできなかった。ドイツの市民環境運動が「緑の党」として独立した政党に成長し、既成政党・行政に対して多大の影響を与えている現状をみるとき、京都やわが国の環境団体のあまりのひ弱さ・非力さを嘆かずにはいられない。
神戸市の空港建設、大阪市の3セク破綻と職員厚遇問題、京都市の同和行政にみるように、行政に対する「カウンターパワー」(政治的対抗勢力)が育たないところでは行政の腐敗と暴走を止めることができない。京都議定書の発効は、環境NGO・NPOが真に「カウンターパワー」になりうるか、それとも「ノン・ガバナンス・オーガニゼーション」(非統治組織)・「ノン・ポリティカル・オーガニゼーション」(非政治組織)として、単なる行政の「コラボレーション団体」としての道をたどるかの分岐点である。