2月1日
 
  いま、『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫、全5巻)をドロナワ的に読んでいる。2月6日(日)午後から京都会館会議場で開かれる「災を考える京都シンポジウム」のレジュメ(講演要旨)をつくるためだ。開催日時がわかっているのだからもっと早くから準備すればよいのに、それができない。大小取り混ぜて十数件ぐらいの仕事をいつも同時並行的にやっているので、一つのことだけになかなか集中できないのだ。また時間が物理的にできたとしても、人間の頭脳はスウィッチ一つで簡単に切り替えができるわけではないので暫くは次の仕事にかかれない。頭と身体、頭脳と気持がコラボレート(共働)しない限り、物事をじっくり考えることなんておよそ不可能なのである。

  しかしより正確にいえば、いまのこのような状態は「頭も身体も立ちすくんでいる」と言った方が適切だろう。いわゆる「モラトリアム」状態である。頭の片隅ではずっとそのテーマが引っ掛かっているのに、そのテーマに対してどう取り組んだらよいか、どんな切口でアプローチしたらよいかががさっぱり見えてこない。だから身動きが取れないのだ。

  今回のシンポジウムは、昨年11月に発生した京都府北部の台風災害が主題だ。しかし3人のシンポジストのうち2人は地質学や河川災害の専門家なので、私が立ち入る隙間は全くない。風水害の自然科学的分析や土木工学的対策などについては一切触れる必要がないのである。また専門家でない私にはとてもそんな話はできそうにない。そこで苦し紛れに「災害問題と自治体再編」という大きなテーマを考えた。自然科学的アプローチに対して社会科学的な観点から問題提起しようと思ったのだ。

  そんなときにふと頭に浮かんだのが、「天災は忘れた頃にやってくる」という寺田寅彦のあの有名な一節である。それをキャッチフレーズに使おうと思っているのではない。実はそのパロディとして「災害は忘れないうちにやってくる」というコピーを考えたのだ。寺田寅彦(1878〜1935年)は、明治11年生まれの実験物理学者で学士院恩賜賞まで受けた優れた自然科学者だった。後に地球物理学にも深い関心を示し、地震・火山・海洋・気象などの研究に基づき、自然災害の多い日本に対して多くの防災のための提言を行った。寺田はまた夏目漱石の教え子(旧制五高)で俳人・随筆家でもあった。彼は夏目漱石の『我輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれている。彼の随筆は300編を超え、その優れた文才は朝日新聞・中央公論・岩波書店などを通して広く世に愛された。彼の随筆の中には、「天災は忘れた頃にやってくる」というタイトルのものはない。しかし「津波と人間」「火事教育」「函館の大火について」「天災と国防」「災難雑考」「日本人の自然観」「小爆発二件」など多数の災害に関する論考には、この考え方が貫かれている。

  寺田は45歳のときに関東大震災(1923年)に遭遇し、東京はもとより関東一円にわたって火災風の調査をしている。関東大震災を契機として東京帝大地震研究所が設立されたときも、理学部教授のかたわら地震研究所の所員を兼任している。そのときの弟子が日本の地震学の草分けとなった坪井忠二である。また理化学研究所時代の弟子には雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎がいる。中谷もまた寺田の薫陶を受けた優れた自然科学者・随筆家であり、科学映画製作(岩波映画)の先駆者でもあった。私はまだ高知市の寺田寅彦記念館は訪れていないが、石川県加賀市の中谷記念館には知人に連れていってもらったことがある。

  長々と寺田の紹介をしてしまったが、私のいわんとするところは、「忘れた頃にやってくる」のは天災であったとしても、最近のように「忘れないうちにやってくる」のはもはや天災ではないということなのだ。寺田も『津波と人間』の中で次のように言っている。「(三陸海岸の大津波から37年経って同地方を襲った大津波が)これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲ってくるのであったら、津波はもう天変でも地異でもなくなるであろう」と。

  昨年来の台風・地震・津波などの度重なる襲来は、もはや「天災」という言葉の抜本的再検討を迫っているのではないか。「天災」という言葉を逃げ口上にして自らの責任を回避しようとする政府や政治家に対して、もはやそのような言い訳が許されなくなってきていると思うのだ。昨今の世界的な異常気象によって「天災」は次第に常態化してきているのである。「天災」はもはや「忘れないうちにやってくる災害」となったのであり、それに対応する新たな防災対策が求められている。そしてこのような状態を放置することは、災害が「人災」そのものに転化していく恐れを抱かせる。