つれづれ日記
12月5日

  昨日、キャンパスプラザ京都で開催された「今なぜ教育基本法の『改定』なのか」という連続学習会に出た。京都教育センターが主催する連続12回の最終月例回だ。メインレポーターは京教組委員長の大平勲さん、私はその控えというところだ。大平さんは京都総評議長も兼ねる錚錚たる労働運動のリーダーだが、優れた教育実践を積み重ねてきた教育運動の理論家であり実践家でもある。これまでの労働運動指導者というと、とかく親分肌の人が多かったが、さすがに学校の先生たちの組合の委員長だけあって話しがきわめて明晰でわかりやすい。わざわざ私を呼んで教育していただいたような会だった。

  教育基本法の前文は次のようなものだ。「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」。どこから読んでも非の打ちどころのない立派な文章ではないか。それがいま「国を愛する心が書かれていない」などの言いがかりで、小泉政権の手によって「改定」されようとしているのだ。

  しかし、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した日本国憲法」を丸ごと変えようとしている側からみれば、この憲法理念を頂く教育基本法をそのままにしておくことができないのは当然だろう。彼らからすれば、憲法も教育基本法も「一網打尽」にしたいというのが本音なのだ。だとすれば、私たちも絶対に退くわけにはいかない。平和憲法擁護と教育基本法擁護とは表裏一体の関係なのだから、憲法も教育基本法も丸ごと守らなければならないのだと強く思う。

  とはいえ、率直言って私は教育学者ではないので話す内容に非常に困った。事務局からはレジュメの催促がくるが、一日延ばしに延ばしているうちに遂に提出期限に間に合わず、その場で話すという大醜態を演じた。さぞかし事務局の方々も当惑されたことだろう。

  私の話の大筋はこうだ。明治維新以降、第2次大戦に敗れるまで日本国民を駆りたててきた教育イデオロギーは「立身出世主義」だった。後進国日本が欧米列強諸国の植民地化から免れるためには、日本の政治的独立とその経済・軍事基盤である富国強兵政策を推進する人材養成が急務だった。そのために国民義務教育制度の確立と帝国大学設立などの教育政策が重視され、国民の各階層から(農民・職人・商売人の子弟なども含めて)人材がリクルートされた。「立身出世主義」は、たとえ家庭は貧しくても一生懸命に勉強すれば「末は大臣か大将」になれるかも知れないという夢と希望(あるいは幻想)を広く国民に与えることによって成立し普及した教育イデオロギーだった。

  第2次大戦後に広く国民の心を捉えた教育イデオロギーは、戦後民主主義だといいたいところだが、実は「経済成長主義」だった。戦争で生活の全てを破壊され、焼跡から生活再建の第一歩を踏み出さなければならなかった国民は、なによりも生活の向上とそれを可能にする経済成長を願った。「まずパイを大きくしてからみんなで分けよう」という「パイの論理」が広く国民の間に浸透した。日本の政治を揺るがした60年安保闘争が、池田内閣の「所得倍増計画」にあっけなく吸収されていったのは、なによりもその証だった。「いい生活をするためにはいい会社に入らなければ」、「いい会社に入るためにはいい学校に入らなければ」という教育イデオロギーが国民を駆りたてた。高校進学率・大学進学率を急上昇させたのも「経済成長主義」だった。

  そしていま、教育基本法の改定を推進しようとしている側のイデオロギーは「国際貢献主義」だ。言葉を換えれば「大国主義」というところだろう。日本経済のグローバル化にともなって、日本は国連常任理事国入りをして国際政治にイニシャチブを発揮できるような位置を占めるべきだ、そのためには国際的な紛争処理や人道支援にもっと積極的に参入するような体制づくりや人材養成が不可欠だ、自衛隊の海外派兵なども自由にできるように日本国民は国際貢献的視点をもつべきだ、などなど、この種の論調は読売・産経はもとより日経の紙面にも連日溢れている。

  しかし結論からいって、私はこの策動は成功しないだろうと思う。あってはならないことだが、たとえ教育基本法の改悪を彼らが強行したとしても、「国際貢献主義」がかっての「立身出世主義」や「経済成長主義」と同じく広く国民を巻き込む教育イデオロギーとして浸透することはあり得ないと確信している。理由は以下の3点だ。

  第1に、「国際貢献主義」がアメリカのエージェント(手先)としての国際貢献であることが国民の間に次第に知られてきている。「小泉がブッシュのプードルから番犬にされようとしている」との笑い話は、学生たちの間ではもはや「古臭いネタ」とさえなっている。イラクへの自衛隊派兵延長はすでに政府の既定方針となっているが、もしも犠牲者が出るようなことがあったら世論が一変することは間違いない。オランダでも当初は与野党一致で軍隊を派遣したというが、一人の犠牲者の死を境にして撤兵方針に転換せざるを得なかったと現地で聞いた。

  第2は、われわれ日本国民とりわけ若者たちが、本当の意味での「大国」(国際貢献国家)の国民にふさわしい処遇をされていないということだ。一部のエリート層は別としても、大方の国民はいま将来の生活不安に怯えている。経済成長で得られた社会条件・生活条件が次ぎから次ぎへと剥奪されつつあるからだ。日本の企業社会を支えてきた雇用・所得の継続性と安定性が、いま過酷きわまるリストラ政策によって根底から解体されているのである。国際貢献を期待されている学生や青年たちが正規社員としての雇用を保障されず、フリーターや派遣社員として酷使されているそのときに、どうして彼らに国際的に通用する日本国民としての誇りを持てといえるのか。

  第3は、これからボディーブローのように利いてくる少子化の影響だ。大学の教育現場にいるとよくわかるが、最近の急激な少子化傾向の中で、学生たちの意識やライフスタイルに顕著な変化がみられるのである。ベビーブームの頃や子どもの数がどんどん増えていた時代では、およそ考えられないような変化が彼らの中に起こっている。一言でいうと、それは青年の価値観や生きがいの多様化だ。画一的競争主義の前提にある「いい会社に入る」「いいポストにつく」「お金を沢山もうける」といったかっての出世主義的・拝金主義的価値観が大きく崩れてきている。「ほどほどの収入さえあれば生きがいのある仕事をしたい」と思っている学生たちが意外に多い。そしてこのような若者たちは、大国主義的な国際貢献イデオロギーにはきわめて警戒的な反応を示すのである。

  学習会の後、次の研究会に向かう電車の中で内心忸怩たる思いを抑えることができなかった。やはりレジュメのない話は難しい。話の筋があちこちに飛んで参加者を混乱させてしまったのではないか。アドリブの名人も友人の中にはいるが、やはり私には無理だと痛感した一日だった。