11月29日
28日、財団法人「大学コンソーシャム京都」の設立10周年記念式典があった。大学コンソーシャム京都は、1993年に京都市と市内各大学が連携して立案した「大学のまち・京都21プラン」を契機にして1994年に設立され、全国に類を見ない大学間、大学と行政及び大学と経済界などの間を取り結ぶ連携組織として発展してきた。設立当初の名称は「京都・大学センター」だったが、1998年に財団認可された際に「大学コンソーシャム京都」と改称された。
いうまでもなく、京都は「大学のまち」「学生のまち」である。「大学がよく似合うまち」といってもよい。大学数や学生数では遠く東京に及ばないが、市民一人当たりの学生数すなわち「学生密度」では日本一だ。要するに市内のどこにでも「学生はん」がいるまちなのである。このことは何気ないようでもあり、また大変なことでもある。それは「大学のないまち」や「学生のいないまち」に行ってみるとよくわかる。そう思って見るからかも知れないが、都市の風格や市民の持つ雰囲気がどことなく違うのだ。
大学とまちの関係は、ただ単に大学がまちの中に物理的に立地しているだけでは生まれない。以前に、大阪のある自治体で総合開発計画の調査研究をやったことがあったが、そこでは大学が一応あるものの、学生たちは通学路の商店街を素通りするだけで市民の生活とは何の関係もなかった。これでは大学とまちの関係はないのも同然だ。大学とまちの間で本物の関係が生まれるためには、なによりも学生たちがまちの中に住むことが大切だ。学生が住みたいと思うまちでなければ、「大学のまち」とはいえない。高度経済成長期には郊外への大学の流出が相次いだが、果たしてどれだけの「大学のまち」が生まれただろうか。そこがただ通学するだけの場所であり、道端に煙草の吸殻と空缶が捨てられる場所であるとすれば余りにも悲しい。
学生の生活空間としての大学のまちは、学生が勉強し、アルバイトができ、遊べることが必須条件だ。都市計画学的にいえば、まちに「職住遊学」の4条件がそろっていないと学生の定着は難しいのである。なぜなら最近の学生生活は勉強とアルバイトと遊ぶことが三位一体になっており、どれ一つ欠けてももはや学生生活は成立しなくなっているからだ。昔の学生のように、大学と寄宿舎の間をピストン往復するような光景はもはや想像することすら難しい。講義とゼミの合間に素早くバイトをこなし、終わるとクラブ・サークル活動のために再び大学へ戻ってくるような生活が彼らの日常生活になっているからだ。
「大学のまち」といえば、ヨーロッパにも古くからの大学都市が数多くある。よく知られているのは、イギリスのオックスフォードやケンブリッジ、ドイツのハイデルベルグ、それに先日私が訪れたオランダのライデンなどである。これらの大学都市に共通する特徴は、都市そものが大学を核にして歴史的に形成され、そして大学とともに成長してきたということだ。大学以外の要素が少なく、そこから大学を取ってしまうとほとんど何も残らない文字通り「大学のまち」なのである。
しかし、京都は違う。大学は京都の欠くことのできない要素ではあるが、京都はそれだけで成立している都市ではない。大学は京都という都市の「ワンノブゼム」なのである。だから、京都では大学とまちの間の互いの調和が要求される。私がよく知っている例でいえば、ボローニャ(イタリア)、ロンドン、パリ、ボストンといった大都市での大学のあり方が参考になる。例えば、ロンドン大学の場合だ。ロンドン大学はオックスフォード大学やケンブリッジ大学に次ぐイギリスの有力大学で、江戸時代の幕末に伊藤博文たちが留学していた大学として日本とも縁が深い(ちなみに小泉首相もロンドン大学に一時遊学したとあるが、単位を修得したかどうかは知らない)。しかしロンドン大学は、実は独立したキャンパスがない大学なのである。ロンドン北部のユーストン駅から大英博物館にかけての市街地一帯に、本部や図書館、各学部や研究所の建物が散在しているだけだ。大学全体としての門もなければ守衛さんもいない(個々の建物にはいる)。ケインズのいた経済研究所なども道路標識や登録建築物の標識がなければまったくわからない。私がいたUCL(ユニバーシティカレッジ・オブ・ロンドン)などもその中の各学部・学科・研究所などがそれぞれ分散していて、最初に訪ねたときは探すのに途方にくれたものだ。
これは大学設立の歴史とも関係している。貴族や地主の子弟たちの学校として設立されたオックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学の総称)は、もともと教授と学生がカレッジという学寮で生活をともにする個人教育の場所だった。その生活共同体がカレッジでありキャンパスだった。しかし、資本家・経営者や商人など新興ブルジョアジーの子弟の教育施設としてスタートしたロンドン大学は独立した学舎を用意できるはずもなく、市街地の中の既存建物に間借りして授業を始める他はなかった。また学生は多額の寮費や授業料を払えないので、寮生活ではなく自分の家から通学し、個人教育ではなく集団で教えを受けた。いまで言う「通学」「教室」「講義」の始まりだ。その伝統が現在も大学風景として引き継がれているわけだ。
だが、まちの中にある大学の感じも悪くない。市民は抵抗感なく大学や学生の中に入っていけるし、大学とまちが互いに馴染んでほどよく溶け合っている雰囲気もオシャレで心地よい。いかめしい大学都市ではなく「まちなか大学」の雰囲気がステキなのだ。京都の各所で大学街や学生街が形成され、それが周辺一帯のまちの空気や様相に染み渡っていくようなそんな京都になってほしい。以下は、(財)大学コンソーシアム京都の『設立10周年記念誌』に寄稿した私のコラムである。
--------------------------------------------------------------
京都市役所三羽烏の果たした役割
〜京都・大学センターの発足に至るまで〜
広 原 盛
明(京都府立大学前学長)
昨今の「大学コンソーシアム京都」の隆盛ぶりは実に目覚ましい。しかし、その前身の「京都・大学センター」の発足に際して京都市事務当局の果たした役割は案外に知られていない。とりわけ内田局長・折坂課長・白須係長(いずれも当時)の「市役所三羽烏」(と私は名付けたのであるが)は、コンセプト立案、庁内支援体制整備、予算獲得などの各方面で文字通り八面六臂の活躍をした逸材だった。
京都・大学センターの発足には前史がある。市内数大学の教授グループと市役所スタッフ及びコンサルタントで研究会を発足させ、そこで自由闊達な議論が行われた。メンバーは、たしか落合(同大・法哲学)、河村(龍大・開発経済学)、竹内(京大・教育社会学)、広原(京都府大・都市計画)各教授と内田・折坂・白須各氏だったように思う。そこでは大学と地域の関係について各専門分野から多彩な議論が展開されたが、とりわけ重要だと思われたのは、京都のまちづくりにとって大学・学生の占める役割や位置づけが明確に認識されたことであろう。
それは一言でいえば、大学は都市にとって欠くことのできない「知的インフラ」だということだ。大学は市民や自治体・企業などの直接的な教育・研究・文化ニーズに応えていくための情報供給機関であると同時に、都市全般の知的・文化的環境を形成していく上での「ヒヅン・カリキュラム」(隠れたカリキュラム)を供給する、いわば「地下水脈」としての役割を果たしているとの歴史的認識である。
最近、都市のまちづくりや持続的発展にとって「都市の品格」すなわち「都市格」が決定的に重要であることが分かってきた。そして大学は、都市格を維持していく上での不可欠な知的インフラであることも今では共通の理解になっている。これからの激しい都市間競争の中で、大学コンソーシアムが京都のために果たす役割はきわめて大きいものがある。