11月22日
ハーグでの会議の最中、ここにかの有名なマウリッツハイス美術館があるのをふと思い出した。たしか同美術館の収蔵品であるフェルメ−ルの作品の一つ「青いターバンの少女」が数年前に大阪市立美術館で公開され、大騒ぎになった記憶がある。美術愛好家の知人に誘われるまま暑い夏の真っ盛りに見に行ったが、会場に着てみるとなんと待ち行列が会場の外まで溢れているではないか。自分一人ならとっくに帰っているところだが、そうもいかないので2時間も待って漸く見ることができた。
そんな思い出が蘇る中で、ハーグの最後の日のスケジュールの合間を縫って一人でマウリッツハイス美術館へ出かけたところ、今度はその凄まじいばかりの中身に圧倒されることになった。ビエンホフといわれる中世の由緒ある建物が集中している歴史的街区があり、首相府や外務省、国会議事堂などの現役の官庁街がその中にある。建築群だけでも眼を見張るほど素晴らしいのに、その一角にルネッサンス風の瀟洒な建物のマウリッツハイス美術館があるというわけだ。オランダ領ブラジル総督ヨハン・マウリッツの邸宅として17世紀に建てられ、多くの芸術家のサロンとなった建物である。
そこには、オランダ黄金時代の15世紀から18世紀にかけてのオランダとフランダースの珠玉の名品が常設展として一堂に展示されている。われわれが教科書でしか知ることのできないレンブラント、ルーベンス、フェルメ−ル、ヤン・ステーン、フランス・ハルス、ファン・アイクなどの作品が所狭しとばかり並べられているのである。会場の受付で聞くと、日本でのフェルメ−ル展以来「青いターバンの少女」(正式には「真珠をつけた少女」というらしい)がお目当ての日本人観光客が大挙して押しかけるそうだ。幸いこの日はシーズンオフとあって会場は比較的空いており、日本人の姿も皆無だった。印象的だったのは、幼稚園の児童が手に手にパンフレットを持って先生の説明を聞きながら絵を見ている光景だった。こんな小さな頃から世界の名作に接しているのだから、芸術が日常生活の中に自然と染み渡っていくのも無理はない。ちなみに少しミーハー的な解説をすると、日本人には大人気のフェルメ−ルはおそろしく遅筆だったそうで、生涯に40点余りの作品しか描いていないそうだ。そして10点近くがすでに失われているというから、残る作品は30点余りしかない。その中の20点近くがこの美術館に展示されている。だから私はフェルメ−ルの作品の大半を見たことになるわけだ。ついでに美術館の話しをすると、オランダには日本人が必ず訪れる場所に国立ミュージアムと国立ゴッホ美術館がある。いずれもアムステルダムの中心市街地だ。前者の建築はアムステルダム中央駅を設計した建築家ペトルス・カイパースの手によるもので、外観は互いによく似ていて本当に美しい。またアムステルダム中央駅は東京駅のモデルでもあるので(設計は日本人建築家の第一号である辰野金吾)、日本人にとっても懐かしい印象を与える。蘭学を通してのオランダと日本の繋がりは切っても切れないが、建築の世界でもオランダの与えた影響は非常に大きいといえるだろう。
それからもう一つ、ゴッホの話しをしよう。ゴッホは日本人にとっては最も親しい画家の一人だ。彼自身も日本の浮世絵から大きな影響を受けていたことはよく知られている。その作品の多くが弟のテオ・ゴッホによって保存され、現在の国立美術館になっている。ところがゴッホ作品についてはもう一つの見逃せない場所がある。それはアムステルダムから100キロほど離れたオランダ中部の国立公園内にあるクローラー・ミュラー美術館である。ドイツの実業家夫妻が収集した世界有数の美術品を国立公園になっている森ごと国に寄付したというのだから話しが大きい。実はそこに「アルルのはね橋」「糸杉」「ひまわり」「星空のカフェテラス」「自画像」「郵便配達夫」「マダム・ギノ」など世界に知られたゴッホの名品が惜しげもなく展示されているのである。
アムステルダムから高速道路を飛ばしてクローラー・ミュラー美術館を訪れたのは、全ての公式日程を終えた日の小雨が煙る夕方近くだった。辺りはほとんど人影もなく、入場門から数キロも走った広大な国立公園の中にモダンな美術館が佇んでいた。庭園一帯もムーアーやノグチイサムなど数々の彫刻作品の展示場所となっている。自然、建物、彫刻、そして屋内の美術品が一体となって想像を超えた芸術環境を形作っている。狭い美術館の中で人の肩越しに作品を見ることに慣らされてきた私は、この環境にどう対応したらよいのか暫し戸惑いが消えなかった。
出発前に述べた故絹谷助教授の事故現場にも訪れた。さぞかし北海の寒風に吹きつけられて寒いだろうと思っていたが、案に相違してこの日は雲一つない快晴だった。日曜日だったので花屋はすべて閉っていたが、さすがは花の国だけあって途中のガソリンスタンドに豪華で格安の花束が売られていた。どんな人が買うのだろう。クローラー・ミュラー美術館で買い求めた絵葉書を添えて事故現場近くの海に捧げた。それに日本から持っていった清酒も。絹谷先生、安らかに眠ってください。