つれづれ日記
11月4日

  明日5日から15日までオランダへの出張だ。文部科学省ORCプロジェクト(オープン・リサーチ・センター)で、龍谷大学の「地域における公共政策と人的資源の開発システムの研究」というテーマの国際研究プロジェクトが2003年度に採択され、その国際シンポジウムがハーグで開催されるのである。プロジェクトリーダーは法学部の富野教授、研究メンバーは国内外の58人、5年間の継続研究で研究費も億単位という大型研究プロジェクトだ。その中で、私は「都市計画法制と地域公共政策」というテーマを担当している。

  会議そのものは8日から10日までの3日間、テーマは「ヨーロッパにおける最近の市民参加事情」である。この国際シンポジウムがハーグで開かれるのは、そこに市民参加を進める国際的なボランティアセンターがあり、ヨーロッパ中の情報や人的ネットワークの結節点となっているからだ。だから参加スピーカーも、日本、オランダ、イギリス、イタリア、ポーランド、ギリシャ、ブルガリアなど多国籍にわたっている。すでに分厚いプロシーディング(予稿)も届いており、報告や議論の展開が楽しみだ。

  実は、オランダという国は私個人にとっては「痛恨の国」なのである。別にオランダという国自体に対してさしたる思いがあるわけではない。オランダでいまから40年前に起こったある事故が、当時私が所属していた西山研究室(京都大学建築学科)のその後の運命を大きく分けることになったからだ。

  忘れもしない1964年9月、西山教授が突然青ざめた顔で研究室に入ってきて「絹谷君が亡くなった」と告げられた。オランダ留学中の絹谷助教授が干拓地の見学に参加した際、堤防上の道路で交通事故に遭い即死したというのである。研究室全員が総立ちになり、留学先の国連地域開発研究センターや外務省との連絡に追われた。当時、私は大学院生グループの最上級生だったので事後処理の全てにあたったが、これほど辛い仕事はなかったことを覚えている。

  建築学科は、政治社会や経済の動きに必ずしも敏感ではない工学部の中では異色の存在だ。建築・都市の歴史やデザインを対象とする人文・美術系の講座を持ち、住宅問題や都市問題などを研究対象とする社会・経済系の講座もある。当時、西山研究室は住宅・都市問題研究の最先端を担う国内のメッカと目され、その中心的リーダーが絹谷助教授だった。彼は戦後まもなくして建築系学生の全国組織である「全国建築学生会議」の中心メンバーとなり、各大学こぞっての共同調査の企画や実施を組織した理論家でありかつ有能なオルガナイザーでもあった。西山教授が戦前のアカデミックな伝統を継承した生粋の個人研究者であるとすれば、彼は戦後民主主義にふさわしい組織型の研究者だった。「絹谷君を失ったことの意味を理解できる者は誰もいない」と西山教授は告別式で語ったが、果たしてその言葉は現実のものとなった。私たち後輩は、束になっても彼を失った巨大な穴を埋めることができないまま今日まできてしまったからだ。

  過去3度、私はオランダを訪れている。うちデルフト大学で開催されたIFHP(国際住宅・都市計画会議)の際は、事故現場に入って道路わきに花束を捧げてきた。今はもうオランダでは秋を通り越して冬の季節、北海に面した堤防には寒風が吹き荒れていることだろう。でもこんな季節だからこそ、もう一度現場にいって海に花束を投げたい。30歳台半ばで客死した若き研究者の鎮魂のためにも。