10月18日
朝夕がめっきりと涼しくなった。というよりは「冷えてきた」と言ったほうがよいかも知れない。私はもともと「ウオーキング大好き人間」なので四季折々平均して歩いているが、さすがに今年の夏はあまりにも暑くて歩くどころではなかった。だから快適な季節の到来は本当にうれしい。やっと「我が世の秋」が訪れたというわけだ。
毎週木曜日は龍谷大学で講義やゼミがある日だ。この日は雨でも降っていないかぎり、たいていは自宅から片道35分から40分くらいかけて伏見疎水の側道を大学まで歩いていく。(でもこんなことを書くと、大学から交通費を返せなんていわれるかも)。通常は往路がお昼すぎで、帰りが夜の9時前後になる。歩くことの楽しみはいろいろあるが、なんといっても最近の楽しみはどこを歩いていても金木犀の香りが漂ってくることだ。花の開き具合によって鼻から脳をつんざくような強烈な匂いもあれば、ほのかなでふくよかな香りもある。数は少ないが銀木犀の香りもすばらしい。少しあっさりした匂いだけれども、なんとなく見分け(利きわけ?)がつく。
昼間のウオーキングと夜のそれは明らかに趣がちがう。季節によって雰囲気は異なるが、昼と夜とではまるで「まちの表情」が違うのだ。最近流行の環境心理学分析ではないが、夜になると嗅覚や聴覚それに皮膚感覚も一段と研ぎ澄まされるような気がする。夜の静寂(しじま)がまちを覆うと、いろんな音や匂いに対して人間の感覚は敏感になるのではないか。人影がまばらな道を歩いていくと、花や樹木の匂い、土や水そして辺り一帯のヒンヤリした空気も皮膚で感じ取れる。とりわけ、いまの季節は金木犀の匂いがまるでセンサーのように導いてくれる。だから私のウオーキング・ルートは、その日のセンサーの調子によってあちこちに移動するのである。
私がいま住んでいる桃山丘陵北部のあたり一帯は、戦前は第16師団(京都に本拠地を置く軍隊)の練兵場であり騎馬訓練場だった。戦後は開拓農地として払い下げられ、高度経済期の頃からやがて区画整理事業が始まり次第に宅地化が進んできた。しかしまだ所々に畑地が残っており、野菜を作って畑近くで販売している専業農家も少なくない。植木屋さんの苗圃も散在している。家業と結びついた農業空間や緑環境が周辺市街地を自然ゆたかなものにしている。整然と宅地化されていないことが却って居住環境をゆたかなものにしているのだ。こんなことは学生時代の「都市計画」の講義では習わなかった。
話は変わるが、つい先日の15日の夜、東京神楽坂の東京理科大学で渡辺俊一教授の定年にともなうシンポジウムがあった。渡辺氏は日本の都市計画理論(比較研究)の第一人者で、私と同年令の親友(「畏友」というべきか)である。テーマの「イギリス都市計画から何を学ぶか」をめぐってまず渡辺氏が発題し、続いて東工大の中井教授と私がコメントするという次第でシンポジウムが進められた。
イギリス都市計画といっても範囲はきわめて広い。限られた時間内で取り上げられるテーマはごく僅かだ。その中で私は3つのテーマについてコメントした。第1が「ゾーニング」(土地利用計画)、第2が「インナーシティ」(既成市街地)、第3が「ニュータウン」(新都市)である。世界で最も早く近代都市計画制度を確立したイギリスでは、まず都市と農村をグリーンベルト(緑地帯)で画然と区分し、次に都市内部の土地利用を商業地域・工業地域・住宅地域などに整然と区分し、さらにそれを上回る都市成長に対しては職場と住居がセットになった郊外のニュータウン開発で受け止めようとした。きわめて分かりやすい都市計画システムだ。それに比べて日本の都市計画はどうか。
まず第1に、都市と農村の境界は「スプロール開発」(虫食い状の乱開発)になってしまって目茶苦茶だ。グリーベルトなんてどこを探してもない。第2に、都市内部の市街地は「住商工混合地域」といって住宅・商店・工場がモザイクのように入り交じっている。およそゾーニングなどないのも同然だ。第3に、ニュータウン開発といっても実質は寝るだけの「ベッドタウン」でしかない。これでは先進国イギリスに追いつけるのはいったいいつの日か。こういって嘆くのが日本の都市計画研究者や専門家の常だった。
私も日本の都市計画の現状をそのまま肯定する気持ちなどさらさらないが、さりとてイギリスを近代都市計画の「単一モデル」にして「追いつけない」と卑下ばかりしているのも能がない。もっと日本の現実に基づいた別の視点がないものかと考えていた。その結果行き着いたのが、「過度に分離しない」「ほどほどの混合計画」という考え方だ。
切っ掛けは、1980年代に目撃したイギリス大都市のインナーシティと郊外公共住宅団地の凄まじい荒廃ぶりだった。上層階級・中産階級・労働者階級そして下層階級と社会構成が画然と分かれ、それにしたがって居住地も輪切りに区分(差別化)されているイギリスでは、階級「間」の矛盾は都市計画ゾーニングによって回避されるが、階級内部とりわけ下層階級(例えば黒人などの少数人種)の矛盾は出口を塞がれることによって却って深刻化する。それが居住地での「バンダリズム」(器物破損)やコミュニティの解体、薬物中毒や犯罪など各種の社会問題のマグマになって噴出していたのである。
このような状況が日本で比較的少ないのは何故か(かって山谷・釜が崎暴動はあったが)。それは居住地格差はあるものの、内部ではまだしもいろんな階級階層の人たちが入り交じって住んでいるからであり、ゆるやかなコミュニティの連携がまだ失われていないからだ。中でも地域で商売やものづくりを営んでいる自営業者の役割が大きい。そこそこの資産を持ち、24時間市民として地域のあらゆる問題に関心を払い、そして問題解決のために責任を負いつづざるを得ないような中間層・自営業者の存在が、階級間の分裂にともなって発生するさまざまな地域問題の噴出を食い止めているのである。夜寝るためにだけ住んでいるサラリーマンなどの「ベッドタウン市民」だけでは、犯罪問題ひとつをとってみても対応することは難しい。
日本の都市の危機は、いまこの中間層・自営業者が急速に没落しつつあることだ。商店街が衰退し、町工場が閉鎖されるにともない、地域の少年非行や子どもの連れ去りなど憂慮すべき犯罪が急速に増加しているのは、その危険信号だとはいえないか。それは機械的ゾーニングによって地域の社会構造が画一化され、多様な住民が共存するコミュニティと居住環境が失われようとしているからだとはいえないか。私が魅力を覚えるまちは例外なく混合市街地の下町であり、また農家や植木屋が混在する周辺市街地なのは、多分こんな問題意識に裏打ちされているからだろう。