つれづれ日記
6月24日

今日は参議院選挙の公示日だ。今後の3年間は途中で衆議院解散でもない限り国政選挙はないのだから、今回の選挙は憲法問題や年金問題をはじめ21世紀の日本の将来を決める歴史的な選挙になると思う。だが、今朝の新聞を開いて驚いた。全国紙の中には一面トップどころか下の5段記事程度で扱っているところさえある。これではまるでどこかの地方選挙並みの軽さではないか。日頃から国民の政治無関心を嘆き、低投票率に危機を鳴らしているはずのマスコミが肝心のときに限ってその責務を果たそうとしないのだから、何をか言わんやだ。

 さはさりながら、京都では若干の改善も見られた。2月の市長選挙では沈黙したままだった各紙が、3候補者の公開討論会を事前に開催して読者にその模様を知らせたのである。また、市民団体「まつり7.11」(2004参議院京都選挙区公開討論会を実現する会)の呼びかけに応えて、3候補者が参加した21日夜の公開討論会(ぱるるプラザ)も盛況だった。かっては公職選挙法で保障されていた立会い演説会が消されてしまった現在、このような有権者の関心を高め、各陣営の政策を知らせるうえで、候補者立会いの公開討論会は不可欠の存在だ。「政治家の名、知っていますか」「政治家の姿、見えていますか」「政治家の声、聞こえていますか」と呼びかけた「まつり7.11」の努力と行動力を高く評価したい。

 とはいえ、2月市長選挙で候補者だった私の心境は複雑だ。なぜ市長選挙でこのような公開討論会が開かれなかったのか。なぜ候補者の名・姿・声を市民に知らせようとする努力が各方面で行われなっかたのか。そんな思いがわだかまってなかなか消えない。私たちが努力しなかったわけではないのである。現職側陣営には何回も公開討論会を申し入れた。いろんな市民団体や学生たちも行動した。にもかかわらず、現職側陣営は頑として応じようとしなかった。そしてこのような事態を見ながら、マスコミ各社は傍観を続けたのである。

 わずか地元テレビのKBSだけが「どうする京都!」というシリーズ番組の中で取り上げた。が、候補者間の討論は避けてコーディネーターの質問に各候補者が答えるという異例の形式が取られた。そういう条件でしか現職側陣営が同意しなかったのだという。これでは「討論」にはならない。討論とは「議論をたたかわせること」すなわち「ディベイト」のことだ。国語辞典にも英和辞典にもそう書いてある。候補者が横に並んで順番に喋っただけでは、およそ討論にならないことはいうまでもないではないか。ところが、このような番組でさえ裏に仕掛けがあった。4人のコーディネーターの中の1人に過ぎないさる経済人が番組の進行を取り仕切り、私への個人的中傷ともいえる口汚い言動を繰り返したのだ。彼は現職側陣営を政治的に代表する選挙組織の幹部である。このような人物を中立公平であるべきコーディネーターに起用すること自体が「偏向番組」そのものだといえるのではないか。

 この点「まつり7.11」の運営はまことに厳正で公平だった。討論会が特定の候補者や政党を支持・応援するものではないことを明確にしたうえで、運営を公平中立にするためのルールを事前に公表して実行した。いわく、(1)年金、外交・国防・国際貢献、憲法、教育・育児・青少年、環境という討論テーマをあらかじめ設定する、(2)テーマごとにくじ引きで候補者の発言順序を決める、(3)候補者の発言時間を均等に配分する、(4)会場参加者は特定の候補者の発言を妨げるような言動を慎む、(5)司会の指示がある場合を除いて拍手をしない、(6)特定の候補者のイメージにかかわるような示威行為をしない、などなどである。

 それからもう一つ、これは今回の候補者に直接答えてほしいことがある。それは二ノ湯さとし氏(自民党)、福山哲郎氏(民主党)は市長選挙での各党の実質的な責任者だったからだ。いいたいことはこうだ。つまり市長選挙では公開討論会を一切拒否したにもかかわらず、どうして今回の参議院選挙では自分はそれに参加したのかということだ。国政選挙では必要でも市長選挙では必要ないということだろうか。そうではないだろう。公開討論会が市民の政治参加を促し、民主政治を実現していくうえで不可欠の条件だと認識しているのであれば、そういう行動にはならないはずだ。

 要するに、公開討論会を開くか開かないかは自陣営にとって有利かどうかという選挙戦術上の判断しかないなかったからではないか。これでは党利党略の御都合主義だといわれても仕方がない。

 有権者がもう少し長いスパンで候補者を見て投票してほしい。京都のためにも日本のためにも。